視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
NPO法人源流理事 豊原 稔さん(高崎市倉渕町岩氷)

【略歴】榛名高校卒。看板屋暦25年。スポンサーだった「はまゆう山荘」にも勤務。地域づくり団体「榛名まちづくりネット」会員。趣味はパラグライダー。

雨さんの絵

◎円空のような足跡残す

 高崎市倉渕町権田の国道406号・権田の信号を中之条方面に進むと、旧長井宿の牧野酒造の隣に「田舎そば利りく」と書かれた木の看板が目立たぬように立っています。のれんを出していなければ田舎の民家のようで、季節にはダイコンが干してあったりします。自家製のそば粉を使い、まるで田舎のおばあちゃんちに行ったようで、週末には遠方からのお客さまでにぎわいを見せています。

 のれんをくぐると土間、昔ながらの掘りごたつ、襖絵(ふすまえ)には墨で山と野仏が描かれています。この襖絵はさすらいの画家、雨さんこと横手由男画伯が描いた烏川上流の風景だと知る人は少なく、ほかにも何点かさりげなく飾られています。

 雨さんは大正六年、渋川市に生まれ、家が貧しかったため尋常小学校を中退して上京。宮大工の徒弟や印刷工などを経て、昭和十四―十七年の間、召集されて中国東北部を転戦。帰還後はさまざまな職業を転々としながら、墨絵、版画、油彩、板絵などの分野で独自の画法による「師もない弟子もない」創作活動を続けました。

 四十七年、五十六歳になって画業だけで生きていく決意をし、家を出て丹波、若狭、山陰、東北をはじめ全国各地に放浪。京都府加か悦や町(現・与謝野町)には四十九―五十年にかけて滞在して多くの作品を残し、平成十三年九月に八十五歳で亡くなりました。

 雨さんの画業は、水上勉、司馬遼太郎、三浦朱門、吉村昭、俵萠子、黒岩重吾ら作家諸氏の装丁装画でも知られています。

 平成十四年三月、当時の倉渕村権田の東善寺で「横手由男画伯追悼展」が開かれました。開催にあたって、作品を貸してほしいという村上泰賢住職の呼びかけに百五十点余りが集まり、観覧した人々は作品の多様さに驚嘆しました。「仙人のような、世俗をはるかに超えた人」と語る人もいました。

 新潟県南魚沼市にある温泉旅館で、露天風呂から正面に巻まき機はた山が見える大沢館には玄関、各部屋、廊下に数多くの雨さんの絵のみが飾られています。雨さん自身が部屋に合わせ、選んで掛けたということです。初めて絵を見に立ち寄った時、ご主人は「雨さんのお知り合いならお友達です。いつでもお風呂に入りに来てください」と、初対面でふだん日帰り客を受けていないにもにもかかわらずおっしゃられました。

 生涯に十二万体彫るという途方もないことを発願し、それを成就したとされる円空。円空仏が世に問われ、クローズアップされたのは、円空没後二百数十年。現在、確認されている円空仏は四千五百体以上といわれ、円空研究の第一人者、長谷川公茂氏は「円空の彫刻ほど、われわれの心を打つものはない。その彫像は簡素で要点をつかみ、いつも豊かにほほ笑んでいる」と言います。

 おなじように雨さんの作品は、行人の残した足跡のようです。水上勉氏がこんなことを書いています。「後世の研究家は、やがて、横手さんが、旅の途次に捨てた傑作絵の収集に困る日がくるだろうことが想像される。ぼくは大変快い空想である」と。






(上毛新聞 2006年8月21日掲載)