視点 オピニオン21
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高崎健康福祉大学非常勤講師 三井 久味子さん(高崎市貝沢町)

【略歴】高崎塚沢中校長などを経て高崎市教育研究所長。現在、女子栄養大(埼玉)、高崎健康福祉大の非常勤講師。エイズ教育の啓発に取り組む。

日常の中で

◎優しい気持ち向けたい

 五十歳代のころには、健康への不安はあったものの、はるかかなたにあるような気がしていた死への恐怖も、六十も半ばを過ぎてくると、実感を伴ったものになってきた。遺言を毎年書き換え、遺影を撮り直している人も珍しくないと聞くが、私の場合、まだそこまでは考えていない。取りあえず、やり残したものを探す旅を始めたばかりである。

 「人生って一回きり。私たちも、そんなに先があるわけではないから生きているうちに…」。同年代の友人らとファミリーレストランなどでお茶を楽しんでいる際、誰とはなしに出る言葉である。何となく、納得してしまう。だからといって、具体的に何をすればよいのか結論は出てこない。その言葉は、場を盛り上げるアクションのように繰り返し繰り返し登場し、それぞれがエレジーにも似た感慨であったり、人生の言い訳をしているようでもあるが、取りあえず自己と対峙(たいじ)する一瞬である。

 私たちは年を重ねるごとに自分自身がはっきりしてくる。特にほかの人とかかわったときに、受け入れがたい相違が明白になることが多々あり、自らを知る場面に出合う。だからといって、相互に円滑に生きる手だてが身に付いているので、強烈な個性の発揮と自己主張は薄められ、うまく融合しながら共同体を保っているのが現実である。

 先日、とあるレストランで友人らと会話を楽しんでいた。窓の外を見ていた友人の一人が突然、会話をさえぎった。「あれ、あの人倒れて立ち上がれないみたい。どうしたんだろう」。一斉に目が友人の視線の先に集中した。と同時に、共に立ち上がり、一目散にメーン通りを往来する車のすき間を抜けて、八十代と思われる小太りの老人の傍らに立っていた。右手に持ったつえを何度も地面に突こうとするが、徒労に終わっているようだった。「どうしたのですか」と聞くと、「腰掛けようとしたら倒れてしまって」と力のない声が返ってきた。その声と顔色から大丈夫らしいと一安心し、友人が右、私は左脇を抱えて起こした。

 気が付くと人垣ができていた。やじ馬心理も手伝ってか、それでも、各人が心配そうな面持ちで見詰めていた。その中の一人、三十代前半と思われる男性が「僕がお連れしましょう」と老人の腕を抱えて静かに立ち去った。それにしても、この一こまは何だったのだろう。頻繁に通り過ぎていく人の群れはあまりにも無関心だ。今や人間の心を失った無機質な物にさえ感じる。

 今やボランティアは、心ある者が各方面でさまざまな内容で行っている。私たちは、その心を日常の中で息づかせられないものだろうか。一つの形の中で表現する授け手と受け手の関係を超えて、隣人に、友人に、知人に、行きずりの人にも、優しい気持ちを何げなく向けられる習慣をそれぞれが持ち合うことを忘れてはいないだろうか。何か大掛かりな事をすることや、社会に認知させることではないと思う。私たちがやり残したと感じていることの一つに、そうしたことがあるような気がしている。






(上毛新聞 2006年8月29日掲載)