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うぶすな句会主宰 林 香燿子さん(東京都港区)

【略歴】父の出身地渋川市に小学4年のとき疎開。渋川女子高、日本女子大卒。俳句結社「濱」で活動。濱賞、同人賞などを受賞。「濱」編集同人。俳人協会会員。

伊藤若冲の絵

◎描きながら遊び尽くす

 今年の夏は、伊藤若冲(じゃくちゅう)に明け暮れた。私が若冲の名を知ったのは約三十年前。当時、東大の美学科の友人がいて「今日はすごい絵を研究室で見せられた。若冲っていうんだ。鶏とオシドリなんだけどね。二つともこれからアメリカのコレクターの手に渡るんだってさ」。続いて彼いわく。「日本では誰も見る目がなくて、みな茫ぼうとしている間に次から次と買われているらしい」「それって、どんな絵?」「一応、狩野派ってことだけど、力強くて楽しいっていうか、天真らんまん、分かりやすいんだ。何しろ二羽の鶏が見えを切ってるんだからね」「どこにあったって?」「京都のお寺らしいよ」。こうして私の脳裏に若冲が刷り込まれたのだった。

 そのころ、戦災を免れたどこかの蔵には日本画の屏びょうぶ風や掛軸の一つや二つ、まだまだあったので、人々には日本画は目新しくも何ともなく、専ら西欧の油絵や彫刻に関心が集まっていた。既に北斎や広重はかなり海外へ流出してしまったとは聞いていたが、若冲も同じく版画みたいなものかと二三、美術書をあさってみたが、どこにも名前すら載っていなかった。そのうち、すっかり忘れてしまった。

 ところがである。その後十年を経て、ワシントンやボストンの美術館を訪れる機会を得た折、数週間かけても見切れない日本美術のおびただしい収集力に圧倒され、それと同時に若冲の名がこつぜんとよみがえったのである。

 やがて十年、二十年の間、ぼつぼつと京都の相国寺、京都国立博物館、細見家などで待望の若冲との対面を果たすことができたのであったが、本年の東京国立博物館においての「プライスコレクション若冲と江戸絵画」は殊に圧巻であった。

 ご存じの方も多いと思うが、若冲は一七一六年、京都・錦小路の青物大問屋の跡取り息子として生まれた。二十三歳で家業を継ぐも家業には目もくれず、旦那(だんな)芸の絵だけが趣味の、今日でいうオタクであった。狩野派の絵師に描き方を学んだが、当時の修業は同派の絵を模写することであった。やがてそれに飽き足らず、金銭に糸目をつけず南宗画の模写(一千点に及ぶ)へと移り、と同時に庭に数十羽の鶏を飼い、一日中その写生に徹したという。

 さて「若冲と江戸絵画」へ話を戻そう。江戸時代でありながら、巨大な象のモザイク仕上げにも驚かされたが、例えば「群鶏図」。十三羽の鶏が一羽とて同じ羽根の模様がなく、向きも種々。厳密にいえば鶏でありながら、松笠(まつかさ)のような胸、矢羽根のような尾、この世に存在しない鶏である。計算された鶏冠(とさか)の朱の配列。構図に無駄がなく実に美しい。鶏浄土とも言いたい不思議な懐かしさが絵を抜け出し、あたりを支配している。見回せば、見ている人々は若冲の術中に落ち、笑みをおのずと零(こぼ)しているではないか。若冲が描けば、紫陽花(あじさい)にも瓜(うり)にも蝶(ちょう)にも魚にも己が宿り、描きながら絵の中で遊び尽くしているのが伝わってくる。

 売るためではなく、また名声を得るためでもなく、すべて仏への帰依のための絵であったと聞くと、ふとフランスの哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉がよぎった。「すべてを知っていることよりも、一つの小さな愛の業の方がなお偉大である」と。






(上毛新聞 2006年10月28日掲載)