視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
体験民宿「寺子屋やひろ」代表 飯出 八紘さん(上野村乙父)

【略歴】高崎商高中退。会社勤めの後、上野村に帰郷し、上野物産を創業。2001年の国民文化祭を機に設立の「おてんまの会」初代会長。04年に体験民泊を始めた。

上野村の伝統と文化

◎復活させ、伝承したい

 私は昭和十七年、現在住んでいる上野村の農家の三男として生まれました。当時は、食べる物や着る物も十分になく、今の人たちには想像もできないほど貧しい暮らしでした。長男は家に残り、二男以下は都会に出なければなりませんでした。もちろん、女性たちも紡績工場や看護婦(師)として病院などに就職しました。寮や住み込みでしたので、大変だったようです。

 子供のころは旧道しかなく、バスは今の新羽で終点でした。子供たちは歩いて通学し、学校へ行くときはまきや炭を背負子(しょいこ)で背負い、家に帰るときは米やしょうゆ、製粉所で粉にした小麦粉などを家に持ち帰るという毎日でした。

 遊具はほとんど手作り。食べ物は十分には足りず、子供たちは野山の木の実や草の実なども食べました。このときに経験した食べられる物、薬になる物が後の仕事に役立ったのです。

 そして、昭和三十年代になると、農業はコンニャクや養蚕、林業は薪炭の出荷が盛んになりました。国有林の仕事では製材所が廃止され、山奥で切り出された材木はトロッコで集積所まで出され、車で新町(現在の高崎市)の貯木場まで輸送されました。鉄道用の枕木などの出荷も盛んでした。

 このころ、私の家ではコンニャク作りや養蚕のほか、羊も飼っていました。当時は羊毛等の輸入がなかったのか、羊はとても高価で取引されました。学校の先生の初任給が八千円ぐらいのとき、雌の子羊が生まれると一万円くらいで取引され、いい収入源でした。

 しかし、コンニャクは相場のお化けともいわれ、天候や前年度の在庫に左右され、あまりいい商売でないと子供心に感じました。それでも、荒粉一袋が三万円くらいですから、当時はまあまあの生活ができました。荒粉一袋とは、生のコンニャク玉を輪切りにしてスズ竹のくしに刺し、天日乾燥させたものを三七・五キロで一袋といいます。

 二月ごろの畑は凍結して何も作れないので、山から楮(こうぞ)を切り出し、それを大きな鍋の上に載せ、その上に大きな桶(おけ)をかぶせて三時間くらい蒸して皮をはぎます。このときは、地区総出でやります。賃金の代わりに、皮をはいだ棒をもらって囲炉裏(いろり)のまきにしました。そして、楮の皮は換金したり、自分の家の障子紙などにしました。その後、その鍋で大豆を煮て、みそを造りました。

 養蚕はいい繭を出荷して換金し、くず繭で機織りをしましたが、よそ行きにはいい繭を使いました。

 このように貧しい生活の中でも、神仏を中心とした伝統行事や暦の二十四節気などの行事もやっていましたが、今はほとんど中断しています。これを何とか復活したいと考えております。今ならいろいろなことを知っている古老たちがいらっしゃいます。話を聞いて、村の文化を伝承していきたいと思います。






(上毛新聞 2006年12月25日掲載)