視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
こでまりの会会長 飯島 久江さん(伊勢崎市国定町)

【略歴】 太田市生まれ。10年間、幼稚園教諭を務める。1999年、原爆被爆者の手記などで構成した朗読劇「この子たちの夏」を公演する「こでまりの会」を設立。

原爆朗読劇の上演

◎命の貴さ教えてほしい

 ここは、伊勢崎市立あずま南小学校。給食を終えた六年生が教師引率のもと、次々と視聴覚室へと入室してきた。

 昨年の冬休み前のある日、私たち「こでまりの会」による原爆朗読劇≪この子たちの夏≫は、この視聴覚室で上演された。

 今、小学校では各学年、国語科の中で戦争の話を扱った内容を学習している。また、六年生の社会科において原爆関連の内容を学んでいるそうである。国語の科目として学ぶ戦争のこと、原爆のこと。社会科の歴史として学ぶ原爆のこと、戦争の事実…。どちらも児童たちにとって大切な授業である。しかし、学校教育はそれぞれの知識の内容を分かち、要目に分け、それをまた解釈し、説明してゆくことに追われがちではないだろうか。

 知識の系統性や理解の精密性としては、そうせざるを得ないのかもしれないが、児童の心が分析された知識の吸収という態度にのみ重きを置かれることは、心の動きを機械化するように思う。学校が週五日制に移行してから、学校の忙しさは加速し続けているのではないだろうか。

 そのような時代の中にあって、貴重な授業時間を、原爆の被災者の手記遺稿集により構成された≪この子たちの夏≫の上演に充てていただいたのであった。

 ≪この子たちの夏≫はスクリーンに映し出される広島、長崎の原爆投下後の惨たんたる画面と効果音楽、そして、朗読からなる疑似体験の世界である。授業用に幾分短く編集し直したが、非常に苦しみに満ちた疑似体験である。そして、その体験は聴く人の感性で、どこをどう感じても自由である。教科書の学ぶべき教え事とはまた別の味わいを持って、子供の心に触れ入ったのではないだろうか。

 後日、私たちへ寄せられた八十九人の児童たちの感想文集の一部を、少し紹介させていただこう。

 「自分がこの人たちの立場だったら、どうするのだろうと考えてしまいました」「私たちは戦争時代の子供たちや、死んでいった罪のない人たちのために今を生きていかなければならない、と思いました」「時代が違うだけ。私たちは同じ子供」「原子爆弾は二度と使ってはいけない」「苦しいときは、こでまりの会のことを思い出します」「こでまりの会をアメリカの原爆を落とした人に見せたいです」「みんな協力し、助け合わなくてはいけない」「戦争もなく暮らしていること、生きていることが、とても幸せなことだとあらためて感じた」

 なお、資料として被爆場面の写真展示も行った。スクリーン以上の悲惨さに、私の方が学校展示を戸惑ったが、学年主任は「実際のことだから、ぜひ展示を」と言われた。子供の感性を信じて、大人が命の貴さを教えることの大切さを、私自身学ばせていただいた気がした。≪この子たちの夏≫の終章は絶望の言葉ではなく、こういう言葉でくくられている。「私は誰れにも文句を言おうとは思いません。生きよう! 生き抜こう!」






(上毛新聞 2007年1月28日掲載)