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ノイエス朝日チーフ 武藤 貴代さん(前橋市)

【略歴】 桐生市出身。1981年から20年間、煥乎堂に勤務し、画廊担当のほか、出版編集業務に携わる。2003年、入社した朝日印刷工業のノイエス朝日担当となる。

「美しさ」の継承

◎行動起こし次の時代に

 長野の小高い竹林に囲まれた小説家の仕事場を毎年訪れるたびに、静寂の中で、小説の一節のように語られる京言葉に魅了された。

 ある日、会話の中で書斎にある一冊の本を持ってくるよう指示され、私にとっては聖地のような作家の仕事場に足を踏み入れる機会を与えられた。原稿用紙に太字で書かれた文字、彩色された野菜や風景の画、ベッドに置かれた文庫本、すべてがキラキラと輝いて見えた。ここから数々の作品が生まれているのかと思うとある種の緊張感が走った。言葉少なに語られる言葉には日本語の美しさがあり、作家の横顔、そして存在そのものが美しく感じられた。<水上勉の書斎>

 東京の閑静な住宅街にある彫刻家のアトリエは広々としていて、中央には代表的な婦人像が置かれていた。近くの木々を写生したというデッサンは、繊細な線で楽譜の音符のように自然と一体となったような美しさがあった。彫刻家は、奥の方からミイラ化したネズミを手に載せ、「美しいでしょう」と言った。白く小さい塊は、確かに美しかった。<佐藤忠良のアトリエ>

 「美しさ」とは何なのだろうか?

 一般的に、ある法則に従った美しさはある。しかし、人間の好奇心や知的欲求を満たす「美しさ」には法則や理論で説明できない、それ以上のものがあるように思う。美しさを感じられる皮膚感覚のようなものは百人百様、個人差がある。統一感があり、バランスがとれ、誰もが美しいと感じられる対象物があっても、「美」意識が違う人にとっては、まったく「美」の対象外となる。また、逆に朽ちていく、滅びていく美学も存在する。

 数日前に、江戸時代の戯曲家で浮世絵師でもある山東京伝(さんとうきょうでん)の歌「耳もそこね あし(足)もくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」を目にした。九歳のときに寺子屋に入るとき、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百を超える戯曲を書いた。机は五十年も使い、形はゆがみ、自分と同じように老い込んだ様を哀れだと歌っている。しかし、その机には愛着とともに「美しさ」があったと思う。

 「美しい国 日本」は、どこかに忘れ去られてきてしまった感はある。人が自然の中で感じてきた美意識は、多くの日本人が知らず知らずのうちに摩滅させ、大きな代償を払い、傷ついた。

 巨大化し、デジタル化された精神性は、その傷跡から新しい芽を出し、育つかもしれない。ある日の早朝、利根川に架かる橋の歩道を一人の老人が静かに掃除をしていた。日本人には、まだ自然と共生する強い精神性が残っている気がした。

 日本の、日本人の美しさを数々、作品に残してくれた小説家。朽ちていく美しさを教えてくれた彫刻家。そして薄暗い橋の掃除をしていた老人。「美しい国 日本」は、掛け声だけではなく、個人の美意識と価値観をもって行動を起こし、次の時代に継承していかなくてはならないと思う。






(上毛新聞 2007年2月15日掲載)