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洋画家 斉藤 健司(高崎市中尾町)

【略歴】 高崎市生まれ。1968年創元展、69年県展初出品以降、毎回出品。創元会運営委員・審査員、県美術会理事・事務局長。NHK文化センター前橋教室講師。

飽食の時代

◎戦時中の代用食知って

 広くのどかな田園地にバイパス道路が建設され、大きなショッピングセンターが出現して景観が一変した。ここは以前から私が好んで歩く散歩コースの一つだ。赤城、榛名山を裾野(すその)まで見渡すことのできる明媚(めいび)なこの地は、かつて昭和十八(一九四三)年から二十(四五)年の終戦まで旧陸軍前橋飛行場(通称堤ケ岡飛行場)があった所だ。

 当時戦局は悪化の一途で、物資はなくなり、食糧事情も深刻の度を増していった。堤ケ岡村誌にも飛行場勤務の人たちの食に関しての記録がある。鶏の餌にする小さな馬鈴薯(ばれいしょ)を煮ていると、食べさせてくれという兵士や、こうりゃんと押し麦のまざった食事で動けないという徴用工に、農家の人が自分たちの乏しい食事を分け与えたことなどが記されている。

 国民の生活はまさに飢えとの戦いであった。二十年七月になると政府は国をあげて、未利用資源活用の大キャンペーンを大々的に行った。現在ではまさかと思うような食材や調理法が陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)から国民に向け、一般新聞に発表された。食材として提案された中には、ドングリ、わら、もみ殻、のこぎり屑(くず)(おが屑)やサナギ、はてはネズミまでが挙げられていた。ここで調理法を二例紹介してみたい。まずのこぎり屑では、腐朽菌(ウスバタケ)により分解したのち、粉末にして小麦粉、米粉などに20%混入し蒲(かば)焼きまたはパンとする。また、わらともみ殻は細断の後、さらに臼でひいて微粉とし、水に浸しアクを除いて小麦粉その他にまぜて食用とする、とある。

 また婦人雑誌も競ってきびしい生活を切り抜けるための記事を載せた。とうもろこしの芯(しん)を薄く切って水煮し、煮出し汁にすると砂糖の代用になる。また茶殻は干して貯え、水につけてもどしご飯にまぜたり油炒いためにして食べる。今まで捨てていた物の食べ方の紹介をしていた。

 開戦当時、日本のGNP(国民総生産)は米国の十分の一以下、鉄鋼生産量は二十分の一以下といわれていた。しかも主要物資のほとんどを米国からの輸入に頼っていたため、とうてい勝てる相手ではないことは十分わかっていたはずだ。しかし開戦を踏みとどまることはできなかった。

 そして太平洋戦争は二百四十万人もの犠牲を払って終結した。

 飽食の時代といわれている今日、スーパーやコンビニでは期限切れの弁当が毎日大量に捨てられ、新しい商品が次々と並ぶ。その一方、肥満や食べ過ぎによる病気が蔓延(まんえん)し、その対策としての治療やダイエットが盛んに行われている。

 食べたくても食べられない時代。食べ過ぎでそのコントロールに四苦八苦する時代。

 この豊かな現在は、どんな時代を経て得られたものか。戦争中の代用食のことを知っていただければ、あなたの“食”に対する意識が変わるかもしれない。






(上毛新聞 2007年3月11日掲載)