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脳機能検診センター小暮医院長 小暮 久也(埼玉県深谷市中瀬)

【略歴】 慈恵医科大卒。米マイアミ大や東北大の医学部神経内科教授、世界脳循環代謝学会総裁など歴任。「明日への伝言」など一般向け著書も多数。深谷市出身。

花と心

◎思いやりを忘れないで

 「花に三春(さんしゅん)の約(やく)あり」(謡曲‥鞍馬天狗)と謡われているように、孟春(もうしゅん)には梅が、仲春(ちゅうしゅん)には桃が、そして季春(きしゅん)には桜が咲いて私たちの目を楽しませてくれる。それが季節と花との約束である。もっとも、山里や北の地方には遅くなってから三つの花が一度に開く土地もあり、そこは三春(みはる)と呼ばれていたりする。

 掃除当番の週になった朝、われわれはいつもより三十分早く家を出た。国民小学校の二年生だったと思う。途中、その冬初めての花をつけた梅の小枝を折って、それを黒板の前に生けたら、とても見栄えがしたので、われわれはちょっと良い気分だった。

 先生は教室に入ってくるなり、フッと腰を伸ばして「おお、もう春がきたか。梅は好いなァ」と褒めてくださった。それから教壇について、朝の挨拶(あいさつ)が済むと口調を改め、「道の端に咲いている花を取ってきてはいけない」と授業を始めた。「みんなのほかにも大勢の人が道を通る。中には角を曲がるたびにこの梅の木を見上げて、『せめてこれが花をつけるころまでは生きていたいなあ』と願うお年寄りが、交じっていられるかもしれない。『蕾(つぼみ)が付いた。膨らんできたぞ。おお、けさはもう色づき始めたか。あと十日もすれば、そうだなあ。わしも、もう一度春を見ることができそうだ』と。分かるな? 梅だけではないぞ。だから、道端の花を取ってはいけない」

 太田市堀口町の駒形山浄蔵寺には樹齢四百年になるイチョウの雄木があり、毎年四月二十八日前後には花序を開く。そして花粉はその時期に吹く北東の風に乗って利根川を越え、深谷市中瀬の長勢山吉祥寺境内の雌木(樹齢はやはり四百年)を受粉させる。二本の老木の隔たりは川をはさんで約六キロ。イチョウの大樹には孤木が多い。それ故にこの、たあいもない一例をとってみても、ヒトが環境に手をつけるときには、どれほどの慎重さが必要か、ということが分かるのではないだろうか?

 他に、裸子植物の仲間のスギやヒノキは優に百キロを超える受粉を可能にしているが、スギ花粉はむしろ日本全土を覆ってアレルギー性鼻炎を起こすことで知られている。しかしこれが、かつて国策として進められ、今では山や川を荒廃させ続けている植林事業による人災であると認識している人は多くない。

 力を持っている人が何かを決定するときには、万全の気配りと思いやりの心を持って事に当たってほしい。そういう心は、かつては日本の道徳の基本を成していたと思う。が、いつの時代にかわれわれはそれを忘れ、社会は刺々(とげとげ)しく劣化した。子供に、孫たちに、「道端の花を取ると、悲しむ人がいるかもしれないよ」と教えよう。この子たちが、われわれの後の世を、もっと優しい環境に、もっと優しい社会にしてくれることを祈りながら。






(上毛新聞 2007年3月15日掲載)