視点 オピニオン21
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不動産鑑定士 須田 知治(伊勢崎市田中島町)

【略歴】 明治大商学部卒。家事・民事調停委員、総務省行政相談委員(伊勢崎支部長)、伊勢崎市都市計画審議会委員、明治大校友会県支部長などを務める。

敬老と老害

◎老人よ、矜持を持とう

 敬老と老害という言葉がほぼ同時期に語られるようになってから、まだ時間はそれほどたってはいない。敬老とは若者や壮年が老人に対して尊敬と敬愛の念をもって接することであり、老害とは、老人が謙虚な心で若者たちに後世を託す際にかろうじて口にすることのできる言葉であろうと思う。

 最近、若者たちの口から敬老という言葉をめったに聞くことはない。「老人の日」にだけ、子や孫が贈り物をしてくれるのがせいぜいのところであろう。世間一般においては、若者たちが老人に対して敬老心を抱くことはほとんど消失してしまっているといってもよい。だから現状下では老人同士が敬老し合うほかはなく、敬老会を組織して慰め合っているが、なぜか滑稽(こっけい)で物悲しさを覚える。

 老人の口から敬老という言葉を聞くことは本末転倒である。敬老会にしても運営主体は若者たちが中心となるのが本来の姿であろう。

 老人の中にも老害という言葉を口にしてはばからない者がいる。若かったときも、老いてからも自分を卑下したままで生きてきたせいであろうか。その昔は年寄りが偉く見え、いまは若者たちが偉く見えているのに違いない。これからは若者たちの時代だよ、と口をついては言う。自分の存在を片隅に追いやって寂しさも、悲しさも感じてはいないようである。

 老人たちよ、矜持(きょうじ)を持とうではないか。矜持とは自分の能力を信じての誇りである。若者たちが老害を口にする限り、家庭や、社会や、経済や、政治もそうやすやすと彼らに譲り渡すわけにはいかないのである。彼らが実力で奪い取ればよい。男女共同参画が叫ばれているのなら、老若共同参画を主張し堂々と手を挙げて参加を迫ろう。そのためには働こうとする意欲を失わないことだ。己を磨く努力を続けることだ。老人同士が敬老し合うことではなく、生きている証しの応援歌を大きな声で一緒に歌っていくことである。

 敬老が老人の手に委ねられている現状は、日本社会が道徳的秩序を崩壊させてしまったからであろう。敬老心の回復が期待できない以上、老人社会の集まりが自らを敬老会という名称で呼ぶことは考え直さなければならない時期にきているように思える。

 老則害、老害という言葉は何と辛辣(しんらつ)で、無慈悲な響きであろう。老人が謙虚な気持ちを秘めて自分を抑えて言う分には許されもしようが、若者たちが安易に使ってよいはずはない。老害の名の下で、若者たちは老人を追いやった後に自分たちがそれに取って代わる見識と力量を持ち合わせていると、自信を持って公言できるのであろうか。そうであるとすれば譲りもしようが、君たちより数倍もの優れた能力と適用性を兼ね備えた老人がたくさんいることを忘れないでほしい。清新で、進歩的で、活力に富んだ老人がたくさんいることを知っていてほしい。もしかしたら君たちはその足下にも及ばないかもしれないのだから。






(上毛新聞 2007年4月2日掲載)