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県立文書館長 秋池 武(吉井町下長根)

【略歴】 国学院大文学部史学科考古学専攻卒。2001年4月から現職。県市町村公文書等保存活用連絡協議会長。博士(史学)。著書「中世石造物石材流通の研究」。

中世の供養塔と石材

◎活発な信仰生活の存在

 「石の上にも三年」、「石橋をたたいて渡る」などの諺(ことわざ)にあるように、石は古くから、頑強で丈夫な印象が強いが、人々の繊細な心を伝えることも多い。関東地方の路傍や墓地には、中世の人々が「現世安穏(げんぜあんのん)」や「極楽往生」を願って建立した、数万基に及ぶ石製の板いた碑びや五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、石仏などの供養塔が点在している。供養塔の建立数が大まかなのは、これまでの研究が見栄えのする塔が中心で、室町・戦国時代の小型で粗雑な造りの供養塔調査が不十分であるためである。

 このような資料的偏りを修正して、中世関東地方供養塔の推移をまとめると―。

 鎌倉時代には、荒川流域で浄土信仰などの教えを背景に僧侶や在地領主が関東地方独特の緑泥片岩製の武蔵型板碑建立を始めたが、次第に関東地方各地に流通し、群馬県でも安山岩などの異形板碑などが建立され始めた。その後、古代の系譜を引く五輪塔・宝篋印塔などの建立が広まるが、これらの石材には神奈川県では西湘から伊豆までの石材や凝灰岩、茨城県では花崗岩、栃木県では宇都宮周辺の凝灰岩、利根川流域では安山岩、凝灰岩、砂岩など、それぞれの地域のものが使用された。

 南北朝時代のはじめには、供養塔建立者層がさらに広がり建立数も増加するが、その後、武蔵型板碑の流通範囲は狭まり、かわりに五輪塔、宝篋印塔の建立数が増加している。

 室町・戦国時代は、武蔵型板碑は次第に小型化して大宮台地、武蔵野台地などを中心に建立が盛んであるが、この周辺地域では大量生産の痕跡を残す多数の小型宝篋印塔・五輪塔が地域石材により建立されている。これは、この時期が古代からの荘園制度が完全に解体し、新たに生活力をつけた多くの庶民層が建立に加わったためと考えられている。

 群馬県は、中世の石造物が多く残るが、特に室町・戦国時代の小型供養塔の建立数が飛び抜けて多く、この時代の活発な信仰生活の存在を伝えている。

 この要因の一つには、赤城山、浅間山、榛名山が山すそや利根川、渡良瀬川の中流域に火山からの軽石質の転石を多数堆積させ、また、鏑川流域の牛伏砂岩層からも多数の崩落岩があるなど、利根川流域独特の石材環境がある。

 これらの地域から継続的に生まれた大量の転石は、軟質で、粒は粗いが粘りがあり、加工が容易であることから安価な石材であったとみられ、これまで望みながらも供養塔を建立できなかった人々が、建立に参加できる大きな要因となったと考えられる。

 このように、関東地方の中世供養塔の広がりと推移は、日本の歴史の中で信仰に目覚めた多くの人々が「現世安穏」と「極楽往生」を願い、はじめて供養塔建立にかかわった軌跡でもあるが、その信仰心の動向は現代の人々とあまりかわらないことを伝えている。

 これらの建立者のように、歴史の表に表れない人々の証しは、各地の歴史的断片を丹念にかき集めることにより、はじめて明らかにすることができる。






(上毛新聞 2007年5月8日掲載)