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洋画家 斉藤 健司(高崎市中尾町)

【略歴】 高崎市生まれ。1968年創元展、69年県展初出品以降、毎回出品。創元会運営委員・審査員、県美術会理事・事務局長。NHK文化センター前橋教室講師。

忠霊塔

◎歴史の犠牲者生かす道

 私の住んでいる地区で毎年、春の彼岸に忠霊塔の前で戦没者の慰霊祭が行われる。忠霊塔という言葉に時代を感じるが、塔は一九四三年の建立である。御影石造り、高さは七メートル余りで軍国主義の時代を映して、かなりいかめしい。私の父もここに合祀(ごうし)されている。

 父のもとに召集令状(赤紙)が来たのは四四年三月であった。父は農業を営んでいて、母は嫁いで三年、私は二歳、妹は生後二カ月であった。父は「年だから外地には行かないだろう、心配するな」と出ていったそうだが、四カ月後の七月、フィリピンの海で戦死した。三十二歳の最下級の兵士であった。

 終戦となり、母は復員してきた父の弟と再婚した。私たち子供は父の弟を実父として育てられ、戦死したのは伯父と教えられた。母は戦死した父のことを口にすることはほとんどなく、家族の中でもこのことについて触れることはなかった。戦争の傷跡を背負って生きた義父も母も、今はもういない。

 今年の慰霊祭の折に、子供のころから気になっていた忠霊塔の中を見せてもらった。鉄の扉をくぐるとうす暗い石壁の空間の中に、細い木枠で組み立てられた二段の棚があった。その上に大きな湯飲み茶碗(わん)ぐらいの壺(つぼ)が並んでいた。素焼きのもの、白い釉ゆうが施されているもの、コップのように中が透けて見えるものもあった。揃(そろ)っていないのは当時の物不足と慌ただしさのためだろうか。壺の前面には細い紙の名札が張られていて、紙の大きさに大小あり、あたかも軍服を着た大柄の人、小柄の人がこちらをじっと見ているかのようであった。

 父の壺はすぐに見つかって、手に取って中を見た。中には茶褐色に変色した紙が縮れて固まり、底にこびり付いていた。母からは髪の毛が返ってきて入っていると聞いていたが、とても確認できる状態ではなく、静かに元に戻した。ここに納まっている壺の人たちは忠君愛国の旗の下に赤紙一枚で召集された人たちである。一家の大黒柱であったり、これから自分の人生を歩み出そうとしていた若者たちである。拒むことのできない時代に無念の涙をのんだ人たちである。

 今年四月に作家の城山三郎さんが亡くなったが、城山さんは十七歳のとき、忠君愛国の大義を信じ、海軍を志願した。そこで一部の職業軍人たちが愛国者の顔をしながらいかに醜いかを知る。大義名分の怖さ、組織の恐ろしさ、暗い青春を生きた証しとして反骨の城山文学が生まれた。

 八月には六十二回目の終戦の日が来る。納堂の壺は「今」をどう見ているか。改正教育基本法や教育改革関連法、国民投票法の成立、集団的自衛権、靖国問題、教科書問題…。また近年、生活面では医療保険料が上がり、医療費の本人負担は増え、年金の手取りは減るなど、国民生活を圧迫している。何やら不安な空気に、昭和初期の戦争前夜を連想しないか。

 戦争とは何か、なぜ戦争が起きたのか。事実をしっかり学び、再び繰り返さないことだ。歴史の犠牲となった死者を生かす道はそれしかない。






(上毛新聞 2007年7月6日掲載)