視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
元群馬大教授 梅澤 重昭(前橋市広瀬町)

【略歴】 太田市出身。明治大大学院日本文学研究科考古学専攻修了。県立歴史博物館副館長、県教委文化財保護課長など歴任。1991年から2000年まで群馬大教授。

遺跡から見えるもの(5)

◎毛野の地域形成に学ぶ

 “毛野首長連合政権”にあって、その盟主首長の地位についたのは、初めに前橋南部を支配した前橋天神山古墳、続いて前橋南部から高崎東南部に支配圏を広げた倉賀野浅間山古墳の首長であったろうということは、その理由とともに前回(五月二十三日付)述べた。県南の平野地域を当時の利根川を境に東西に分けて対比すれば、“毛野”の地域形成は、初めは西の地域が東の地域に対して、優位に展開したということをうかがわせる。

 東の地域はどうだったのだろうか。この地域にあっても弥生時代後期からの無住の地に進出した首長勢力は、大間々扇状地末端に流出する河川水系を単位に地域形成を進めていたが、その中には前方部が低長で、前橋天神山古墳とは異形のタイプではあるが、墳丘規模はほぼ同じの朝子塚古墳が出現しているように、畿内中央から新たに進出した首長勢力もあったらしい。遅れはしたが、金山西南方に拠(よ)った首長勢力の伸張は著しく、五世紀初めには倉賀野浅間山古墳の首長からその盟主首長の地位を継承したようである。太田市の別所茶臼山古墳の首長であったと思われる。ここにおいて、“毛野首長連合政権”はその政権基盤を東毛の平野地域に移すことになったが、それは鋭く抗争した上でのことでもなかったらしい。

 なぜなら、倉賀野浅間山古墳の後、五世紀前半期に出現した毛野地域最大の前方後円墳は別所茶臼山古墳で、全長百六十五メートル余を測るが、同時期に倉賀野浅間山古墳の隣接地に造られた大鶴巻古墳は全長百二十メートル余。しかも、両古墳は墳丘形態が同形(相似形)であることを見れば、別所茶臼山古墳の首長が“毛野首長連合政権”の盟主首長権を象徴する墳墓造営の伝統に鞍替(くらがえ)したとするのが自然だと考えられるからである。

 こうした地域間の古墳の消長に認められる禅譲といってもよい盟主首長の交代が“毛野首長連合政権”を主導する東西二つの首長勢力の間で進められた背景には、東毛の平野地域での開発が進んで、その地の生産力が飛躍的に増大したということがあったからだろう。前方後円墳が畿内大和政権の中枢で発展したきわめて政治的性格の強い首長権を象徴する墳墓であったことを考えれば、畿内大和政権の“毛野首長連合政権”に対する関与があってのものであったことは間違いない。しかも、それは“毛野首長連合政権”の独立性を認めたうえでのものであったことも間違いないだろう。

 記紀の豊城命(とよきのみこと)の上毛野氏始祖伝承などからうかがえるように、“毛野首長連合政権”の首長たちは同族意識を持って連合した氏族であり、“ケノ”の地に大和政権の政権機構に倣って、まさに、その“分国”と呼ぶにふさわしい“毛野国”のクニづくりを目指した首長たちだったのである。

 かくして、群馬の地は畿内、瀬戸内の吉備に次ぐ第三の地として、東国に抽(ぬき)んでたのである。地域変貌(へんぼう)、再編が急な今日、学びたいわが群馬県域の地域形成創成時代のことである。






(上毛新聞 2007年7月12日掲載)