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県立文書館長 秋池 武(吉井町下長根)

【略歴】 国学院大文学部史学科考古学専攻卒。2001年4月から現職。県市町村公文書等保存活用連絡協議会長。博士(史学)。著書「中世石造物石材流通の研究」。

明治神宮野球場

◎県産の石材が支える

 旧新田町(現太田市)出身の早稲田大学・斎藤佑樹投手の活躍により、明治神宮野球場が脚光を浴びている。

 明治神宮は大正九(一九二○)年十一月一日に明治天皇、昭憲皇太后の御神霊をお祭りし、神宮外苑は、その事蹟(じせき)を後世に伝える場所として整備された。

 この一環として建設されることになった神宮野球場は、当時結成の動きのあった六大学野球連盟がこれに協力し、同十五(二六)年十月に竣功(しゅんこう)式が行われた。今年は八十二年目にあたる。

 球場は、その後スタンド拡張などの改修工事が行われたが、本体は当時のままで、今日でも球場を支える灰色の本県産の安山岩製腰石を確認することができる。

 同年二月、「明治神宮造営局」が作成した「明治神宮外苑野球場建造物腰石購入材仕様書」によると、石材名は「棚下石(たなしたいし)」で、使用数量は「壱千八百拾一切0六」、品質は「棚下産ニシテ、山筋山疵ナキ良材ヲ左記内訳書寸法ニ切揃フルモノトス」とし、納入期間は「大正十五年四月十日」、納入場所は東京の「青山工務所構内引込線ニ運搬ノ上貨車積込ノマヽ引渡スベシ」と記している。別に球場外囲門工事用材として三百十二切が送られている。

 このほか、神宮外苑の各施設には棚下石が多数使用されていて、これらの多くを現地で確認することができる。

 「棚下石」は、明治十三(一八八○)年から同十八(八五)年に国道清水越新道(現国道17号)建設の際に、利根川が赤城山西すそを浸食し深い岩石露頭部を形成する、現在の渋川市赤城町棚下の綾戸部分を請け負った石工の宗村五八が開鑿(かいさく)した、と「敷島村誌」(一九五九年)に記されている。良質な石材であったことから建設中の国鉄上越線清水トンネルやホーム、鉄橋の橋台材などとして使用され、大正十(一九二一)年に渋川駅開設とともに東京方面への出荷量が増加した。

 同十二(二三)年九月一日の関東大震災は、関東各県に大量の石材需要を生み出した。県内でも旧薮塚本町の「薮塚石」、旧勢多東村の沢入花崗岩(かこうがん)や吉井町から甘楽町に分布する「多胡石」(天引石)などが家屋や公園などの石材として東京方面に大量に出荷された。同十五(二六)年に建設された東京本所公会堂腰石には、この多胡石が使用された記録がある。

 「棚下石」もこのような歴史の流れの中で神宮外苑に使用された。

 今日、神宮野球場で本県ゆかりの選手が活躍し、大勢の観衆が集う姿を見ると、この外苑の「棚下石」は、上越線が開通していく中で本県から運ばれてきたこと、日本学生野球を創立以来支え続ける一方で第二次世界大戦中には「学徒出陣壮行会」を目の当たりにするなど、学生の明暗の歴史にも立ち合ってきた石材であることを伝えたくなる。






(上毛新聞 2007年7月23日掲載)