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群馬大医学部教授 山口 晴保(前橋市下新田町)

【略歴】 高崎市出身。群馬大医学部卒、同大大学院修了。医学博士。日本認知症学会理事、県リハビリテーション協議会委員長。認知症に関する著書もある。

歯無しにならない話

◎かむことは生きること

 人間、歯が無くなると不自由が多い。かめない、見た目も悪い、しかも記憶が悪くなるという。そこで、今回は歯無しにならない話。

 チンパンジーと人間の頭部を比べると、大きな違いが二点ある。一つはチンパンジーの脳の大きさが人間の三分の一程度と小さいこと。この小さな脳を取り囲む頭蓋骨(ずがいこつ)の周囲には、下顎骨(かがくこつ)を引きつける分厚い筋層があり、強大なかむ力を生み出している。一方、人間は火を使って調理するようになり、咬筋(こうきん)が薄く減った分、脳が大きくなって知能が発達した。もう一点は、チンパンジーの大きな犬歯。縄張り争いでは武器になり相手をかみ殺す。一方、人間の顎(あご)は小さくなり、犬歯は他の歯並みのサイズで、戦いの武器にはならない(痴漢撃退には使える?)。このようにかむ力や顎のサイズが小さくなる進化の過程をみると、かむことは不要なのかと思えるが、答えは否である。かむことは脳に有用な刺激となる。

 認知症(痴呆)高齢者は歯が抜け落ちて残った歯(残存歯数)が少ないという調査がある。これだけでは、認知症になったら歯磨きをしなくなって抜けてしまうからとも考えられる。しかし、健常高齢者を六年間経過観察したら、もとから歯が無かった方は、歯が二十本以上あった方の五倍の頻度で認知症になったという調査がある。歯が抜けることは認知症の危険因子になるようだ。なぜだろうか?

 そこで、ネズミを用いた実験を紹介しよう。ネズミは通常、固形飼料を食べている。前歯で砕き、奥歯ですりつぶして飲み込む。このネズミの奥歯をヤスリで削って、餌をすりつぶせなくした。そして記憶・学習への影響を調べた。

 ネズミの学習なんて、どうして調べるの? という方のためにちょっと説明。大きなタライに水を張って、ある場所の水面下に透明の台を置く。そこにたどり着けばおぼれない。そして、ネズミが何秒でそこにたどり着くのかを調べる。初めはあちこち泳ぎ回って六十秒くらいかかるが、奥歯の働くネズミは、毎日学習すると五日後にはいちずに台に向かって泳ぎ、十秒でたどり着く。奥歯を削ったネズミは学習が苦手で、五日後も四十秒ほどかかった。

 この理由は、奥歯を削ると、記憶に関係する神経細胞が減ってしまうことにあった。奥歯を使ってしっかりかむことで、記憶を担当する神経細胞が元気になる。かむ必要がない軟らかい餌(粉末飼料)でも、記憶担当の神経細胞が減るという実験もある。また、かむことは、脳の覚醒(かくせい)に関係した神経細胞を刺激し、脳を目覚めさせることも分かっている。このように、硬いものをかむことは脳の機能維持、特に記憶機能にきわめて重要だ。歯があるうちはありがたみがわらないが、失って気づいたときは手遅れ。

 歯の保持に王道なし。毎日こまめに歯磨きのみ。ただしゴシゴシと手を大きく動かしての歯磨きは禁物。歯茎を削り取ってしまうので逆効果だ。頭の小さな歯ブラシを使い、手は細かく震わせて歯茎の刺激も一緒に行うのがコツ。かむことは、生きること。歯無しになったら人生台無し。






(上毛新聞 2007年7月31日掲載)