視点 オピニオン21
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少年哲学堂主宰 須藤 澄夫(片品村鎌田)

【略歴】 朗読劇団片品モナリ座主宰、平成草木塔をすすめる会代表。飯能市助役などを経て片品村教育長。著書「少年の夕方」「抒情的生涯学習論」「尾瀬はぼくらの自然塾」など。

自然と芸術

◎「生命力」という共通点

 七月初め、村の学校の先生方と尾瀬至仏山に登った。そのとき、ホソバヒナウスユキソウ(細葉雛薄雪草)を初めて見て狂喜した。

 ウスユキソウには幾つかの仲間があるが、ヨーロッパ・アルプスに咲くエーデルワイスに一番似ているのはホソバヒナウスユキソウ。この花は至仏山と谷川岳ぐらいしか見られない貴重なものだ。

 私がエーデルワイスという名を知ったのは高校生の時だった。学校をエスケープして見たミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』中の歌「エーデルワイス」からである。

 それ以来、この映画を映画館に出向いて十数回見た。この映画は幾つかの大事なことを教えてくれた。人を簡単に笛の号令で動かすものではないこと、家族が生きる力の根本であること、不遇にみまわれても時流に流されないのは尊いこと、そして高嶺(たかね)にそっと咲くエーデルワイスの花の美しいことである。

 とは言っても、そのことどもがすぐに身で分かったのではない。とりわけ、エーデルワイスについてはヨーロッパ・アルプスでしか見られないもので、日本の類似品を見てもしようがないと決めてかかっていた。青年時代はよく山に登ったので日本のウスユキソウの存在は知っていたが、見たいという気もなかったし、見ても目に入らなかったのだ。

 しかし「エーデルワイス」の歌はよく歌っていた。恥ずかしいことながら、わが十八番(おはこ)くらいに思っていた。

 馬齢を重ねて『尾瀬は僕らの自然塾』という本を書かせてもらうようになって、登山に対する幅も少し広がったかもしれないが、過日の至仏山行も同行者に迷惑をかけないで登れるだろうかという心配が先に立ち、花を思う余裕はなかった。

 それが、小至仏の辺りで思いがけなくホソバヒナウスユキソウに出合った。その美しさは瞬時に伝わってきて、私は狂喜しないではいられなかったのだ。

 シーンが変わって、七月下旬、高崎シティギャラリー・ホールで前橋汀子(バイオリン)の「バッハ無伴奏ソナタ全曲」を聴いた。久方ぶりの音楽的圧巻を味わい、至仏のホソバヒナウスユキソウに出合ったときと同じ狂喜が身体の中を走った。

 私はずっと考えてきた“人はなぜ芸術にひかれるのか”という問いに一つの答えを出せるような気がした。文字量の限界が迫っているので短絡させるが、いかなる芸術(art=人為)も自然(nature=生命力)の模倣だから、と。

 自然は実に難解で容易に深遠を明かしてくれない。だが芸術の狂喜を体感することで自然の豊かさを感じる入り口に立たせてもらえるような気がする。このような気持ちを高めていけば、私が言いつづけている緑(自然)の図書館、緑の美術館、緑の音楽館への理解につながっていくはずである。






(上毛新聞 2007年8月30日掲載)