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県立文書館長 秋池  武(吉井町下長根)

【略歴】 国学院大文学部史学科考古学専攻卒。2001年4月から現職。県市町村公文書等保存活用連絡協議会長。博士(史学)。著書「中世石造物石材流通の研究」。

関東大震災資料

◎行政施策に生かして

 関東大震災発生の日を期して設けられた九月一日の「防災の日」には、今年も各地で防災訓練が実施された。

 文書館収蔵の一九二三(大正十二)年県庁文書「大震災関係雑書綴(つづり)」には、この時の県と県民の救援活動が克明に記されている。

 このうちの一つ「関東大震災ニ際シ活動概況」に、当日は「震源地又ハ被害地方等ニ付テハ何等ノ報に接セスシテ時ヲ経過シ夜ニ入リ東南ノ空赤色著シキヲ認メタルモ唯何レモ奇異ノ感ニ打タルノミ」とあり、次いで「夜半12時ニ垂々トスル頃東京電燈株式会社専用電話ニ依リ東京、横浜地方大震災ニ伴ヒ各所ニ火災起リ目下大火中」と記載され、夜中にようやく情報が入ったことが記されている。

 時の山岡国利県知事は直ちに県首脳部を招集、午前十時三十分には状況把握のために内務部長以下四人を自動車で東京に向かわせた。一方、朝には県下の各郡市長、警察署長を参集し、(1)県救護団の設置(2)義援金募集(3)食料蒐(しゅう)集(4)救護班の組織と出動―を決定している。東京に向かった一行は、内務省に出向き警察官二百人の急派、救護班の出動、食料の輸送要請を受け、三日午前二時三十分ごろ帰着し、知事に報告している。

 救護班は、まず医療救護班が高崎線で二日の午後二時に出発し、川口駅から徒歩で入京、翌三日午前二時に都庁に到着。被害が最も甚大であった本所・深川で医療活動を開始した。労働救護班は九十一編成三千三百九十人が組織され、二日午後から三日までにはたっている。

 避難者は、地方課がまとめた「駅内避難民救護ノ状況」によると、三日未明から急増し始め、高崎線の新町駅で多野救護団が九百三十一人、高崎駅で高崎商業高校、佐藤裁縫女学校、医師会など十一団体が「係数ニ現ハレ難キモ約七万人」の救護にあたった。前橋駅で六団体が千九百三十二人、桐生駅で七団体が二千四百七十五人を救護し、本県に避難した数は三万九百五人と記している。

 この間の文書には、緊急電文など非常時を伝えているものが多い。その中に九月二十七日付で宇都宮師団司令部から知事あての電話要旨を記した次の文書がある。

 「近衛師団長 摂政宮殿下(後昭和天皇)ニ拝謁ノ際過般ノ東京大震災ニ際シ群馬県カ逸早ク救護団ヲ上京セシメタル事ニ関シ左記事項御下問(中略) 記 一、救護団ノ組織ヲ如何ニセシカ、一、如何ナル経路ニヨリ輸送シタルカ、」

 これを受けて三十日には山岡県知事が赤坂離宮に参内し奉答したが、摂政宮殿下が「斯グ迅速に適宜ノ処置を取りたるは満足なり」と仰せられたと記されている。

 これらの文書を含めた明治時代から一九四七(昭和二十二)年までの県庁文書一万七千六百二十九点は、本年三月に「群馬県の成立発展とこの間の県民生活を記す貴重な記録」とのことから県の「重要文化財」に指定された。このことは大変好ましいことだが、より大切なことは、これらの文書の内容を見極め、その趣旨が県民生活や行政施策の中に生かされることである。






(上毛新聞 2007年9月11日掲載)