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県立文書館長 秋池  武(吉井町下長根)

【略歴】 国学院大文学部史学科考古学専攻卒。2001年4月から現職。県市町村公文書等保存活用連絡協議会長。博士(史学)。著書「中世石造物石材流通の研究」。

徳川忠長の墓

◎地元石材も使い改修

 JR高崎駅西口の通町にある大信寺墓地で、高崎市指定史跡「徳川忠長の墓」の玉垣改修事業が行われている。

 忠長は一六〇六(慶長十一)年、徳川二代将軍秀忠と正室の崇源院(お江与)の間に第三子として誕生、二四(寛永元)年には駿河、遠江五十五万石を領し駿府を城地とした。その後、数々の行状を理由に領国を没収され、身柄を高崎藩主安藤重長のもとに預けられたが、三三(寛永十)年十二月六日、幕命により城中で自刃した。満二十七歳であった。

 このため、古くから巷間(こうかん)に、兄・竹千代(家光)と弟・国千代(忠長)との間に世継ぎ争いがあったとする説が生まれ、不遇な忠長を偲(しの)んでこの墓所を訪れる人が多い。

 先月の暑い休日の午後、この修復を担当する藤澤石材店主の藤澤潤一郎さんとともに忠長の墓石と玉垣の石材を観察した。

 忠長の墓石は、高さが二メートルをこえる五輪塔に没年と建立年が刻まれているが、没後四十二年たってようやく墓石建立が認められたことが分かる。かつて墓石は「鎖のお霊屋(たまや)」と呼ばれる廟(びょう)におさまっていたが、第二次世界大戦時に焼失したとのことである。

 五輪塔は、姉で六六(寛文六)年に死去した千姫の分骨が埋葬された、茨城県水海道市弘経寺の五輪塔よりは小型であるが、姉弟共に同じ伊豆石材を使用している。

 玉垣は後のもので五輪塔とは石材が異なるが、この墓地の墓石石材に特徴が一致するものが含まれ、地元の石材であることが分かる。

 忠長の墓のまわりには、多数の江戸時代の墓石が保存され、大信寺の歴史の長さを伝えているが、同時にこの墓がこれらの墓石とともに祭られてきたことをもうかがわせた。

 墓石石材を観察して興味深いのは、忠長の五輪塔に使用された伊豆石材は、問屋を通して江戸やその周辺に流通したことから岩質の均一性はもともと高いが、墓の周辺に残る墓石の多くは、地元の石材で一基一基の色調が黒褐色、灰褐色、茶褐色であったり、組成が粗粒のものと細粒のものが混在するなど大変個性が豊かであり、本堂脇に敷き詰められた石畳同様に、そのありさまはパッチワークのような彩りである。

 実は、この彩りのある石材構成が榛名、浅間、赤城の火山をかかえる利根川中流石材の特徴で、中世から近世には河川や山麓(さんろく)から得られたこのような石材を生活の中に使用していた。

 後日、玉垣の石材の不足分は地元の赤城小松石が使用されることとなったとうかがった。このような修復では、それまでの技術や素材を損なわないよう配慮する視点は大切なことである。

 間もなく十二月六日の命日が訪れる。改修事業は大信寺と高崎市、(財)東日本鉄道文化財団によって行われているとのことである。

 生前、幕政に翻弄されたと思われる忠長は縁あってこの地に埋葬されたが、この事業により、墓が高崎藩当時の彩り豊かな墓石に囲まれた、温かい環境に整えられることを期待したい。






(上毛新聞 2007年10月19日掲載)