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元群馬大教授 梅澤 重昭(前橋市広瀬町)

【略歴】 太田市出身。明治大大学院日本文学研究科考古学専攻修了。県立歴史博物館副館長、県教委文化財保護課長など歴任。1991年から2000年まで群馬大教授。

上毛古墳綜覧

◎不易なるものの活用を

 群馬の郷土史を研究する上では欠かせない資料がある。「上毛古墳綜覧(そうらん)」(以下「綜覧」)で、一九三八(昭和十三)年に群馬県史蹟(しせき)名勝天然記念物調査報告第四輯(しゅう)として刊行された。その原本は県に正本が、当時の市町村に所管する分が副本として保管された。今残っているのは県に保管されたもの。戦後の混乱期にあって、その大切さを認識していた関係者がいて、かろうじて亡失を免れたものである。一時は県庁から他所に保管されたこともあったが、県教育委員会事務局にもどり、文化財保護行政の上で果たす役割は今でも色あせてはいない。

 この「綜覧」の基になったのは、三五(昭和十)年に県下一斉に実施された古墳調査。県が実施したかかる種類の調査は、宮崎県の西都原古墳群の調査があったが、全県カバーする一斉調査は他に類はない。群馬県のこれにかけた意義込みの並々ならぬ様を感じさせるが、それに駆り立てた理由ははっきりしている。前年に県下全域を舞台にして行われた陸軍大演習の折、たまたま桐生で発生した昭和天皇行幸車を誤導するという失態事件。その責任をとって更迭された知事の後任知事は、県民に広まった消沈ムードの挽回(ばんかい)をはかり、敬神崇祖を掲げた県民の精神高揚運動を起こした。古墳調査はその中心に位置付けられたのである。古墳が多い群馬県域の歴史に着目した“地域おこし”の運動といってよいであろう。

 かくして、編纂(へんさん)された「綜覧」の内容を見ると、それは県内に分布する古墳の悉皆(しっかい)調査に徹したものであり、史料として客観的な目で古墳を捉(とら)え、最低限必要なデータを地名台帳として、八千四百二十三基の古墳を編綴(へんてつ)している。われわれの時代の古墳研究から見れば、データに足らない点があって当然。市町村間に調査内容の精粗の差、遺漏があるのもやむを得ないこと。それをもって「綜覧」を評価するとしたら見当外れもいいところだ。時流に阿(おもね)ることなく史料調査の基本を守り、悉皆調査のデータを良いとこ選びせずに、あるがままに記録に残した関係者と、戦後の混乱期にその原本を守った関係者の見識に着目し、評価すべきであろう。県内には、この「綜覧」に類する事績は、ほかにも気づかれずに眠っている。そうでなくても時代に流行する価値観で評価され、埋もれようとしているものも多くあるのではないだろうか。それらの存在に注目し、光を与えることは大切なことだと思う。

 ところで、そうしたもののなかに、県や市町村の教育委員会が実施してきた文化財の調査資料の膨大な集積もある。それらの資料は時代を超えてわれわれの前に姿をあらわした“ほんもの”であり、“不易なるもの”である。しかし、それらは自らが自らを語る術(すべ)を持ってはいない。それらに言葉を与えられるのはわれわれで、それは活用することにある。

 “不易なるもの”に目を向けてものを考える、これこそ大切なことではないか―と。多様な様相を示し、しかも変化に激しい社会に生きる私の感慨である。






(上毛新聞 2007年11月3日掲載)