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新島学園短大兼任講師 関野 康治(高崎市貝沢町)

【略歴】 高崎高、早稲田大政経学部卒。銀行勤務を経て同大学院を修了。建設会社法務部門で不良債権処理、企業再生に取り組む傍ら、新島学園短大で講師を務める。行政書士。

日本人と自然

◎対処したい地球温暖化

 欧州では、十九世紀末までに放牧・牧畜のため天然林はほとんど伐採されて、今では二カ所しか残っていないようだ。しかし、一度とことん伐採したことを通して、自然破壊が人に与える影響を知った彼らは、その後、荒れ地の植林に精を出した。かのドナウ川の源流地点であり、欧州一の美林といわれるドイツの黒林も人工林である。

 それに対してわが国はどうか。日本は、国土の七割が森林で、天然林も非常によく残っている。とりわけ対岸に都市が広がる、厳島神社(広島県)のある島の林が天然林として残っているのはまさに奇跡である。しかし、わが国の場合、自然が豊富なだけに、自然を「保護」しようという意識が希薄のように思う。地震が起きれば、大都市でも壊滅する。「やっぱり自然には逆らえない」と思うか、あるいは「びくともしない」といった錯覚をしている。

 そもそも自然を「保護」しようという概念は欧州的だ。わが国にはそんな概念はもともとない。というのは、欧州人が前提とする、唯一神(GOD)が創造した「人」と「自然」という対立概念を前提にしてはじめて、自然「保護」などという、人が優位に立った概念が誕生する。人が自然を克服、征服するというのが「進歩」だという考え方である。

 日本人にとっての自然は保護の対象ではなく、われらをとりまき包み込む概念だ。日本人は昔から温暖な自然の「恩恵」に浴して生きてきた。日本人にとって自然とは、天であり、「かみ」と認識されていた。だから夏目漱石も「天罰」を「自然のために罰せられた」と小説の中で表現している。「人」は自然と対立する概念ではなく、自然の一部という認識がわれら日本人にとってはしっくりくる。

 そんな日本人はだれよりも自然と親しむ術(すべ)や意識があったはずなのに、西洋物質文明に敗れた戦後は自然破壊を繰り返し、鈍感になっていったといえる。ソテツが東京で自生し始めたときは、大いに話題になったものだが、今や地球温暖化が進んで異常気象も当たり前、身近に起こっている自然の変化を実感するようになった。地球規模の環境破壊はますます進んでいる。オゾンホールが拡大しているニュースも最近はあまり話題にならない。

 もっと深刻な変化(取り返しがつかない変化)が目には見えない形で進んでいるという専門家の指摘がある。すなわち、温暖化の影響が海にまではっきり出てきたようだ。サンゴ礁が消滅しているというのはその予兆にすぎない。本来、水が温まるのは最後である。海水温の上昇がはじまるとまず下がらないし、水温の上昇は海を膨張させる。そしてもっと恐ろしいのが、地球全体の温度を調整しているといわれる海底を流れる大きな海流に変化が起きはじめていることだ。

 こうなるともはや遅いかもしれないが、それでも私たちにできることは何なのか。それを真剣に考えて行動に移していかないと、取り返しがつかなくなるような気がしてならない






(上毛新聞 2007年11月4日掲載)