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文筆家 岡田 幸夫(桐生市広沢町)

【略歴】 東北大工学部を経て東京三洋電機に入社。2005年に退社、「晴耕執筆」生活に入る。最新作『気節凌霜道はるかなり』が第7回歴史浪漫文学賞の最終選考に残る。

庄内の絹産業

◎上州に学んだ養蚕術

 鶴舞うかたちは群馬県であるが、山形県は人の横顔にたとえられる。横顔の喉(のど)に位置する米沢市、後頭部が新庄市、その中間に山形市があり、海に面する目から鼻の位置に広がっているのが庄内平野で、ここに酒田市と鶴岡市がある。その間を母なる最上川が貫流している。庄内平野は米どころとして知られているが、はじめてこの地を訪れたとき養蚕・製糸・絹織物も盛んであったことに少し驚かされた。その端緒となった歴史に触れて私は大きな感銘を受けた。

 鶴岡市は庄内藩酒井家十四万石の城下町である。酒田市の近くには分家された支藩の松山藩二万五千石があった。明治維新にいたる戊辰(ぼしん)戦争では朝敵の賊軍となり敗れる。藩は転封・解体される苦境に立つが、敵将西郷隆盛の温情によって救われる。それで前途有為の多くの青年を鹿児島に送って西郷の薫陶を受けるとともに、国家のために役立つ産業を興すため武士たちが刀を鍬(くわ)に持ち替えて、月山麓(ろく)の原野三百町歩を開墾し六十万本の桑を植えた。西郷隆盛は『気節凌霜天地知(きせつりょうそうてんちしる)』という言葉を贈り、苦しい開墾作業にあたる彼らを激励した。桑園は「松ケ岡開墾場」と名付けられた。

 庄内には養蚕技術がなかった。そこで十七人の実習生を上州・島村(現伊勢崎市境島村)に送り、田島弥平・武平の家で「清涼育」の養蚕術を学び、開墾場に田島家と同じ総やぐら構造の大きな蚕室を建て養蚕を始めた。蚕具についても島村から職人を招いて指導を受け、上州座繰り器を使って糸を引いた。器械製糸を始めたのは一八八七(明治二十)年で、富岡製糸場から教婦を招いて指導を受けている。絹織物業が盛んになるのは明治三十年代に入ってからで、輸出羽二重が中心である。この織物は桐生から福井、庄内へと織り技術が伝えられるが、その役割を担ったのが庄内松山藩出身の高力直寛である。

 一方、薩摩の西郷隆盛は西南戦争で果てた。その賊名が除かれ名誉が回復されたとき、旧庄内藩士たちが『西郷南州翁遺訓集』を刊行し、西郷の人となりを広く全国へ伝え恩顧に応えた。

 今日、日本の養蚕・製糸業は産業として衰退し、器械製糸工場はたった二社しか残されていない。その最後の砦とりでを守っているのが安中市の碓氷製糸農業協同組合と、長い歴史を背負っている庄内の松岡株式会社である。

 庄内の養蚕・製糸・絹織物業は、群馬県と大きなかかわりを持つ歴史を経て今日に至っている。私は感銘と興味に引かれるままに歴史物語として原稿にまとめた。それをある出版社に投稿したところ、編集長の目にとまった。山形県出身の編集長は新入社員研修を、松ケ岡開墾場で受けた体験を持っていた。こうした縁のつながりで、『気節凌霜道はるかなり』(郁朋社刊)を世に出すことができた。何げなく訪れ、ふとした驚きから始めたことで、不思議な縁に導かれたことを感じている。






(上毛新聞 2007年11月24日掲載)