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片品村文化財調査委員長 大久保 勝実(片品村鎌田)

【略歴】 片品村などの小学校教諭、中学校長を歴任。教諭時代から尾瀬、武尊山、白根山地域の動植物研究を続けながら、地域の歴史、古文書の調査研究を手掛けている。

猿追い祭り

◎伝説から知る村の歴史

 猿追い祭りは二〇〇〇(平成十二)年、国の重要無形民俗文化財に指定された。片品村花咲に武尊(ほたか)神社が祭られ、この神社の例祭として、旧暦九月中(なか)の申(さる)の日、本年は九月二十九日にこの神事が行われた。祭りの起源は伝承によると、武尊山の洞穴に白毛の大猿がすみつき、麓(ふもと)の村々を荒らしたので村人は困り果て、神社に祈願したところ、祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)が現われ、その威力で退治されたという。このことから武尊山頂には尊(みこと)の像と神剣が祭られたといわれている。

 また別説には、この大猿が悪勢(おぜ)という山賊とも伝えられ、幾つもの話が残されている。

 村に残っている古文書の中にも、このような伝説を裏づけるものが見られる。それを見ると、利根地方を領地としていた沼田氏の記述があり、その祖先が東北の豪族の安倍氏であると伝えている。

 一〇五一(永承六)年、東北南部(現在の青森・岩手県)で安倍氏の戦乱があった。歴史に残る「前九年の役」であるが、この反乱を鎮めるために、京都より源頼義、義家の父子が派遣された。中山道を通って利根地方を北上し、尾瀬を越えて東北の地に入ったと伝えられている。源氏の軍は苦戦の末に東北地方の他の武将の助力で戦乱を鎮圧。安倍氏の将・貞任は戦死、弟・宗任を捕らえて京に帰った。

 この帰軍の際、安倍軍の残党は宗任を慕って、尾瀬地方までついてきたのであった。頼義、義家の父子は残党を不憫(ふびん)に思い、「尾瀬を越えると関東の地。そうなると反乱軍として討伐されるから帰国するように」と諭して思いとどまらせ、京に向かった。

 安倍の残党は帰る地もなく、この利根地方に住みついた。山を切り開き、開墾を進めて村づくりをしたのが沼田七庄で、現沼田市の基であるという。この一族の長が沼田氏の祖・和田庄司といわれ、和田氏四代目の和田四郎が当時、平家全盛の世に京に上り、平清盛に接見。利根・勢多両郡の領主と認められ、沼田城主となったと伝えられる(沼田氏については諸説あり)。

 利根北部は未開の地。僅(わず)かな耕地で村人は生活していた。この村々を山賊が襲い荒らしたので、村々は領主に賊徒討伐を願い出た。城主はこれを聞き入れ、家臣に兵を与えて討伐に向かわせたが、山深く難航した。調べた末に尾瀬を経由する道を探り当て、食糧攻めで降伏させ、その首領・勢田丸(せたまる)ほか百数十人を捕らえた。城主がこの一族を調べたところ、その祖先が沼田氏と同族の安倍一族と判明。勢田丸は責を負い、軽罪に服した。部下は土地を与えられ、開墾に精励。この山賊討伐で残された女や子供たちは山を下り、山麓(ろく)の村で自決した話も残されている。

 猿追い祭りは東日本には珍しい宮座的な組織によって行われ、神社式典は「イッケ」と呼ばれる村の草分けの家々が「サカバン」「ヒツバン」などの役割を交代して取りしきる。

 村の伝説を聞き流さず、詳細に調査してみることも、村の歴史を知る手段と思う。






(上毛新聞 2007年11月30日掲載)