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前藤岡市立東中学校長 除村 晃一(藤岡市下大塚)

【略歴】 群馬大卒。理科の教諭として教壇に立ったほか、県教委で管理主事を務めるなど主に人事職を担当。西部教育事務所長や藤岡市校長会長を歴任した。

教師の資質

◎熱意、誠意、創意が基本

 人が学校という場で教育を受ける期間は、人生の約四分の一から五分の一(幼稚園から大学までとして)である。だから、学校は楽しい場でなければならない。そして、子どもにとっての生きがいとは、学校への“行きがい”であり、学級での“居がい”である。自らの居場所があり、行く張り合いがあれば、学校は楽しい場となる。そして、一人一人が生かされている場では「先生徒」(生きるという文字で先生と生徒がつながっている)の関係になれる。

 学校とは、生きることを学ばせる場であり、教育とは、生き方の種まきであり、人としての魂を育てることであると思う。だから、子どもを見る「眼(め)の深さ」や思いやる「心の温(ぬく)もり」などは、教師として不可欠な資質である。

 一方で、教育とははかない業であり、流水に文字を書くようなものである。しかし、それは文字を岩盤に刻み込むような力強さで取り組まなければならないものである。換言すれば「石仏を彫るに似たり」である。そして、教師の良心とは個々の子どもの変容を自らの生きがいとし、常に己の心と力を練って努力を重ねることである。また、教師の宿命とは終着駅のない列車の如(ごと)く、常に新しい課題に向けて新しい感覚で研鑽(けんさん)をし続けることであると考える。

 学校は常に生き生きと躍動していなければならない。職員室は教育の最前線基地であり、ピリッとした緊張感がなければならない。職員が積極的に心を一つにし、組織を機能させなければならない。職員の創意を生かし、総意を結集するのが学校の姿である。

 さらに、教育実践とは「息をはずませ、つまずき、自信を失い、再び歩き続ける」ようなものである。また、人として未完成な存在の教師が、もっと未完成な子どもを教育するのであり、その恐れを認識しなければならない。教師が変化に主体的に対応できなければ、自ら考え、判断し、行動できる子どもは育てられない。教えることは学ぶことであり、教師には何よりも自ら求める研鑽の姿勢が必要である。教育とは、教師の自己教育力そのものであり、それは「陥他留己(かんたるき)」ではなく「観他励己(かんたれいき)」(いずれも造語)の姿勢である。水は流れているからこそ、清いのである。自らの心に雑草を生やしてはならず、自らの錆(さび)落としは自分にしかできないのである。

 また、一人一人の子どもに「目をかけ、声をかけ、手をかける」ことは不可欠であり、それは心をかけることである。教師は「教えのプロ」であるだけでなく、「育ての達人」でもなければならない。

 総じて、教師として最も基本的な資質は、熱意、誠意、創意の三つである。そして、理想の姿を求めて、謙虚な姿勢を持ち続け、「猪(いのしし)の如く、牛の如く」に常に前進を図り、しっかりと前を見て、足元を見て、日々頑張っていかなければならないものと思う。






(上毛新聞 2008年1月18日掲載)