視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
うすいの歴史を残す会会長 柴崎 恵五(安中市松井田町横川)

【略歴】 蚕糸高(現安中総合学園高)卒。戦後、瀑たき見み保育園設立。1993年から現職。社会福祉法人育誠会理事長。元松井田町議4期。元県保育協議会会長。

謎のない社会の構築

◎子供のモラル教育急務

 碓氷線(信越本線横川―軽井沢駅間の通称)の廃止後に誕生したアプトの道沿いに、碓氷路交通殉難者鎮魂碑と信越線碓氷峠工事殉職者招魂碑が並んで建立されています。「うすいの歴史を残す会」が、一九九七年に長野新幹線開通により廃止された碓氷線を記念するとともに、長い間峻険(しゅんけん)な碓氷峠において各種交通機関の建設・発展に尽くし殉職した人たちを慰霊するため、関係者の協力により建立しました。また、その際、信越本線碓氷峠の難工事で殉職した五百人を祭る鹿島組招魂碑が近くの路傍で人知れず佇(たたず)んでいたのを、鎮魂碑の建立地内に移転しました。毎年九月三十日、鹿島建設と合同で慰霊祭を開催しています。

 鹿島組招魂碑は既に刻字も薄れていますが、「明治二十五年春三月二日、兵庫県加古郡草谷村魚住八十松外五百名明業舎魚住政吉」と刻まれています。

 碓氷線の建設は、日本の鉄道の歴史として物語られています。それは、一一・二キロの急勾配(こうばい)に二十六のトンネルと十八の橋を築く難工事を、一年九カ月で完成させるものでした。富国強兵の国是とはいえ、その陰に大きな犠牲があったと推測されます。私を含め、ほとんどの人は、五百人の死亡が当時流行したコレラによるとする説が有力、と考えています。しかし、現在でも疑問の声はあり、会の研究部会で数年前より調査しています。

 碓氷線は一八九一年三月着工、九二年十二月完成で、招魂碑建立は九二年三月ですから、五百人の犠牲が発生したのは九一年後半と推定されます。明治年間は伝染病が各地に発生し、とりわけコレラで死亡した人が三十七万人といわれています。当時の内務省の資料によりますと、工事着工前年の九○年は全国の死者数三万五千二百二十七人で、本県でも百七十一人、碓氷郡では百人という大流行でした。しかし、九一年は本県五人、長野県三人です。以上の調査によりますと、私たちが長い間信じてきた五百人コレラ死亡説は全く疑問となります。とはいえ、災害や暴動説の記録も見当たりません。五百人の「殉難」は全く謎に包まれています。

 謎といえば、現代社会でもたくさん発生しています。社会保険庁の年金記録不備問題、薬害C型肝炎問題、北陸電力原発事故の八年間隠蔽(いんぺい)問題など数え切れません。これらの問題発生の背景には、行政や大企業に慣習化しているなれ合い、臭い物には蓋(ふた)、癒着など、モラルの低下が大きい要因としてあると思われます。問題が起きた早い時点で、勇気ある対応や行動をとるトップや関係者が一人でもいなかったのか、と私たち庶民は大きな謎を感じます。

 謎といわれるような事件や問題は今後まだまだ起きる要素があります。謎の発生を止めるには、私たちが行政や企業を相手に遠慮なく疑問をぶつけ、不正をただすことも必要ですが、次世代を担う子供たちに命の尊厳や他人の痛みを知る心を育(はぐく)むことが大切です。家庭や保育園等での幼児期のモラル教育が急務であると、保育事業に半世紀余り携わった者として痛感しています。






(上毛新聞 2008年3月4日掲載)