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県立女子大准教授 権田 和士(東京都豊島区)

【略歴】 旧尾島町(現太田市)生まれ。金沢大文学部卒。東京大大学院修了。太田東高、恵泉女学園大などを経て、県立女子大文学部准教授。日本近代文学。

私心のない思索

◎すがすがしい卒業論文

 先日、県立女子大国文学科では卒業論文の口頭試問が行われ、卒業論文の最終審査が終了した。文学部では、卒業論文の対象やテーマあるいは研究方法は、教員が提示するのではなく、学生みずからが決定する。

 私もそうだが、教員の指導は学生の計画や方法に危うさがあるときに助言をする程度にとどまる場合が多い。学生自身が課題を見つけ、みずからその課題と取り組むことが大切だと考えているからである。従って、学生たちは一年以上も前から研究の対象やテーマについて思いめぐらし、課題を徐々に絞り込みながら、研究を進めていかなければならない。

 当初設定した課題が卒業論文提出までの限られた時間の中で解決できるとは限らない。難しい問題を含む課題と取り組んだ場合は、むしろ解決できなくて当然かもしれない。それでも学生たちはみずから課した問題と取り組み、期日までに卒業論文を仕上げなければならない。

 卒業論文の執筆中、期日までに書き上げられないのではないか、という不安を抱いた学生も少なくないと思う。しかし、自分で設定したテーマを追い、さまざまな資料を探し、自分の考えを表現していくことは、本質的には楽しいことである。それは卒業論文を書き上げた学生たちの顔に、はっきりと表れている。

 今回読んだ卒業論文の中に、ある外国語の単語を日本語に翻訳する際の訳者たちの苦心の跡を追い、複数あった訳語が徐々に一つの語に収斂(しゅうれん)していく過程を追うものがあった。そこには、日本語の先達が西洋の文化や文学を日本に紹介する際の苦労や工夫が示されており、それだけで十分興味深かったが、原語の用例も検討され、西洋社会が近代化に際して行った価値観の変動にまで言及されていた。

 普段使っている身近な言葉に疑問を抱き、その疑問を解決するために調査を始めると、そこからさらに新しい課題が生まれ、他の問題へと結びついていく。論文の進行とともに論者の視野が徐々に拡(ひろ)がっていくようすがはっきりと表れていて、すがすがしかった。

 私が感じたすがすがしさは、私心なく素直に進んでいく筆者の考察から与えられたものである。本当の意味での思索というものは、この卒業論文の筆者のように私心なく考えるということだ。この論文の筆者は、他の研究者たちの指摘に耳を傾け、自分の眼(め)で事実を調べ、その事実を受け入れることで、新しい視点を獲得していった。考えるということは、まさにこうした過程そのもののことではないだろうか。

 考えることで、より見晴らしのよい場所にみずからの「視点」を移動させることができたとき、私たちはすがすがしい風景に出合うことができる。この卒業論文から、私は改めて、思索することの喜びを教えられたように思う。






(上毛新聞 2008年3月9日掲載)