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高崎経済大経済学部特任教授 山崎 益吉(甘楽町天引)

【略歴】 高崎経済大卒、青山学院大大学院修了。文部省在外研究員としてロンドン大で研究。元高崎経済大学長。『日本経済思想史』『経済倫理学叙説』など著書多数。

古典のすすめ

◎風雪に耐えた第一級

 古典とは何か。日本語の古(ふる)いという文字は十と口から成り立ち、十代にもわたって、次から次へと口伝えされるほど優れた内容をもっているという意味である。典は机の上に本を並べている様子を表している。それゆえ、日本語の古典とは内容が濃く机の上に並べておく価値があるという意味に使用されている。

 西洋では古典のことをクラシック(classic)という。これは第一級という意味である。軍政下の古代ローマでは、国家に仕える階級を六つに分け、最上級をクラシクスと呼んだ。最上級には優れた者が多かったため、クラシックが第一級という意味に使われるようになった。ちなみに、最下級をプロレス(proles)といい、後にカール・マルクスによってプロレタリアートとして一般化されている。

 では、混迷する現代社会にあって古典から得るものは何か。今日、書籍は毎年、膨大な量が出回っている。その中から良書を選んで読むなどということは至難にちかい。毎週報道される推薦書だけでも相当な数であるから、とても手におえない。そこで、古典が生きてくる。風雪に耐え抜いてきた古典は、人生の道しるべになるに違いない。

 東西、古典と称されるものはこれまた枚挙にいとまがないが、おおよその見当はつく。経済学を例にとれば、A・スミスの『国富論』『道徳感情論』、K・マルクスの『資本論』、J・M・ケインズの『雇傭・利子及び貨幣の一般理論』など典型的な古典である。東洋では、四書(『論語』『大学』『孟子』『中庸』)、五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)などが代表である。

 『論語』や『孟子』が分厚く、『中庸』が難解であるという人には、『大学』を薦めたい。わずか千七百五十三字、四百字詰め原稿用紙四枚半、手っ取り早い。『大学』は「修身」に重きを置く。身を修めることが大前提で、「修身」の前提に「誠意」「正心」を据え、その後に「斉家」「治国」「平天下」が続く。それゆえ、「修身」が本になっていることがよく分かる。

 戦前、軍国主義の代名詞のように強調された「修身」であるが、本来の意味は限りなく身を修める、徳を積む、「明徳」を明らかにすることにある。『大学』は「己の身が修められないようでは、家を斉(ととの)えることはできない。ましてや地方や国家を治めることは不可能である」と強調してやまない。本来の「修身」は徳川一家の「修身」でもなく、戦前の軍国主義のそれでもない。

 古典は教養、人間の幅を持たせてくれる。古典的教養の持ち主は、嘘(うそ)や誤魔化(ごまかし)で世渡りはしない。古典的教養が阻止するからである。第一級としての古典の価値がここにある。






(上毛新聞 2008年5月25日掲載)