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新田史研究会事務局長 山田 悟史(太田市成塚町)

【略歴】 1977年に社会保険労務士になり、98年から山田社会保険労務士事務所長。県社労士会理事、日本年金学会員、司法委員、調停委員(民事・家事)、1996年から現職。

寺尾城

◎400年前から議論続く

 上州最古の城を寺尾城といいます。文書の記録の上で最も古いお城です。その記録とは、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」です。江戸の地名もその中に初登場し、江戸も寺尾城も共に初めてその姿を現します。上州の城の始まりです。

 さてその寺尾城はどこにあったか。高崎か太田か、太田か高崎かと、議論は長きにわたり、決着がついていません。およそ四百年前から始まる議論なのです。

 事の起こりは双方に「寺尾村」があり、今は太田でその地名が消えている事。また徳川家康公調査団がその由緒地を太田とし、菩提(ぼだい)寺を作られた事に始まります。

 また城といっても館や屋敷ほどで、住めば寺尾館(やかた)、守れば寺尾城と記録されています。

 寺尾城の記録文は―。「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」ができる十二年前の治承(じしょう)四(一一八〇)年、源頼朝公が旗上げし、周辺武士団に援軍を求めましたが、静観していた武将が上州にいました。新田義重(よししげ)公です。

 吾妻鏡に『新田義重公は自立の意志があり、頼朝公から援軍を求められても、上野国(こうづけのくに)寺尾城に兵を集め、引きこもった』と記され、ここに寺尾城が初登場します。議論の始まりは、この寺尾城の前に地名が書かれていない事に発しています。ここが核心です。

 それでは寺尾城の議論を二つ紹介します。その代表的な主張が、雑誌『上毛及上毛人(じょうもうおよびじょうもうじん)』に収められ、上毛新聞社より再版され、誰でも図書館で見られます。上州が誇る歴史的歴史雑誌です。原文をご覧ください。

 (1)高崎説(大正三年、雑誌創刊第一号二十五ぺージより、早川碩鼠(せきそ)氏の発表の一部)

 「名挙と由緒ある寺尾城の所在は、新田郡寺井村(現太田市)あるいは片岡郡寺尾村(現高崎市)なりと、衆説区々未(くくいま)だ一定するに至らざるは、上毛歴史上における欠点というべきなり。ゆえに上毛人たる者講究研鑚(けんさん)この問題を解決し、世人の迷いを解くべくなり」と、漢文調で力強く語っております。熱烈に高崎説を主張。

 (2)太田説(大正十四年三月、第九十五号一ページより、岡部赤峰(せきほう)氏の発表の要約)

 太田の聖応(しょうおう)寺は、今も寺尾山聖応寺と称し、境内の石碑にも寺尾村が刻まれている。義重公は、新田乃庄の地主であり新田乃庄寺尾城の記録もある事など、熱烈なる太田説を主張。

 寺尾城の議論は今も続いています。過去の歴史書や発表をたずねれば、白熱の、そして情熱の寺尾城史が見えてくるでしょう。

 私は幾多の先人たちの熱意にひかれ、自らも加わりつつあります。日本史は足元の郷土史から始まる、と思います。






(上毛新聞 2008年6月17日掲載)