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NPO法人足尾鉱毒事件田中正造記念館理事長 広瀬 武(館林市坂下町)

【略歴】 拓殖大卒。1954年から34年間、館林市内の中学校で社会科教師を歴任。渡良瀬川にサケを放す会代表。2006年から現職。著書は『公害の原点を後世に』『渡良瀬川の水運』。

田中正造

◎後世に語り継ぎたい

 今回は、足尾鉱毒事件の解決のために命がけで闘った田中正造について述べたいと思う。

 私たちの学び舎(や)では展示コーナーの八枚のパネルのうち、三枚を使って田中正造を紹介している。その一つに「田中正造の国会活動」というのがあり、ここには田中正造が代議士に当選した当時の写真が展示されている。来館者の多くはこれを見て、「若いときの正造の写真を見たのは初めてだよ」と言う。

 田中正造は、第一回衆議院議員選挙に五十歳で栃木県第三区から立候補して当選した。そして、当選した翌一八九一(明治二十四)年の第二回帝国議会で鉱毒問題を取り上げ、質問をしている。田中正造は、鉱毒問題の解決は銅山の鉱業停止以外にないという考えであったが、その理論的根拠がこの最初の質問によく示されている。即(すなわ)ち、大日本帝国憲法は、日本臣民(しんみん)の所有権を保障している。また、日本坑法では試掘、若(も)しくは採製の事業が公益に害ある時は、農商務大臣は既に与えた許可を取り消すことができると規定している。然(しか)るに現在、渡良瀬川流域の住民は足尾銅山から流出した鉱毒で、年々巨万の損害を受けている。しかし、政府はこれを放置している。なぜ、法律通り許可を取り消さないのか、と政府を厳しく追及している。

 田中正造は、その後も鉱毒問題を国会で何回も取り上げ、被害民の救済と銅山の鉱業停止を要求したが、政府は正造の叫びに耳を傾けようとしなかった。なぜか。明治政府は当時、「富国強兵」「殖産興業」の国策を推進していたため、正造や被害民の叫びに応えるよりも、産業や経済の発展を優先したのである。

 二つ目は「直訴」。このパネルには直訴状(コピー)の全文と、当時の新聞記事が展示されている。直訴状は幸徳秋水が書いたという話を知っている人は多いが、正造がその直訴状を訂正している(訂正印がある)ことは、記念館に来て初めて学ぶことができる。

 田中正造は一九一三(大正二)年九月四日、七十三歳で亡くなった。三つ目のパネルは、その時の盛大な葬儀の写真と分骨地の地図が展示されている。わが国で大きなお墓をもっている偉い人はいるが、民衆の要望で六つももっている人はほかにはいないと思う。

 田中正造は亡くなる少し前、「真の文明ハ山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さゝるべし」と書き残している。展示コーナーの最後にこの言葉が展示されているが、この言葉は田中正造の生き方をよく表しているので、後世にぜひ語り継ぎたいと思う。

 私が当番の日、埼玉県から来た夫婦連れの一人が帰り際、「今の政治家に田中正造の爪(つめ)の垢(あか)でものませたいね」と言った一言は、私の耳から今も離れない。






(上毛新聞 2008年7月9日掲載)