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群馬大社会情報学部准教授 伊藤 賢一(前橋市下小出町)

【略歴】山形県出身。東京大卒、同大大学院修了。博士(社会学)。2001年から群馬大社会情報学部講師、03年から同助教授。専門は社会情報学、理論社会学、社会学史。



役に立つ教育

◎社会が余裕なくす?

 役に立つ教育が流行している。その波は大学教育にも及んでおり、学生にどのような能力を身につけさせるのか、さまざまな場面で説明を求められるようになってきた。

 最近は十八歳人口が減っており、大学はむしろ受験生に選ばれる立場なので、高校に出向いて説明会を開催したり、模擬授業を行ったりする機会が増えた。その際によく質問されるのが「この学部を卒業すると何になれるのか」「どのような資格が取得できるのか」といった質問である(これは、私の所属する学部が、医学部や教育学部のような出口がはっきりした学部とは異なり、どういうところなのか想像しにくいことも一因であろう)。

 また、入学試験の際に受験生の面接試験を担当することがあるが、受験生に志望理由を聞くと、「この学部でこれこれの能力を身につけたい」とか「卒業してこれこれの職業に就きたいので、大学でしかじかの勉強をしたい」というような答えが返ってくることが最近は多くなった。

 入試の面接試験は受験生なりのアピールの場なので、額面通りに受けとるわけにはいかないものの、これも「役に立つ」教育を求める最近の傾向と無関係ではあるまい。

 もちろん、大学で何らかの能力を身につけることは重要だ。何の役にも立たないような教育に高い授業料を払う意味はないだろう。

 かつて「象牙の塔」と揶揄(やゆ)された大学に、国民の批判的な目が向けられて、大学が変わらざるを得なかったのもそれなりに理由のあることだ。方向性を見失う若者が少なくない中、目的意識をもって大学時代を送ることができる学生は、有効に学生時代を使うことができよう。

 しかしながら、同時にそれでよいのか、という危惧(きぐ)も憶(おぼ)える。すぐに成果を出すことを求める最近の傾向は、それだけ社会が余裕をなくしていることを示しているのではないか。大学は単にスキル(技術)を伝授するだけの場ではなく、今まで誰も考えなかったような問題を考えたり、人々が当然だと思っていることに謎を見いだすような場でもあったはずだし、今でもそういう場であってよい。

 方向性を見失うのは、別の言い方をすれば、青春の悩みであり、若者の特権でもある。特に職業選択を求められる青年期に、社会の在り方や自分の生き方を気の済むまで探究することは、大人になるための重要な成長のチャンスである。すぐに役に立つ知識や資格の取得を求めたり、世間を渡っていく「コミュニケーション力」を性急に求めたりすることは、立ち止まってじっくり考える余裕を奪い、実は大切な教育の機会を削り取ることなのかもしれない。





(上毛新聞 2008年7月27日掲載)