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うすいの歴史を残す会会長 柴崎 恵五(安中市松井田町横川)

【略歴】蚕糸高(現安中総合学園高)卒。戦後、瀑たき見み保育園設立。1993年から現職。社会福祉法人育誠会理事長。元松井田町議4期。元県保育協議会会長。




古代まつり

◎平和な未来の構築を

私たちの会は二○○三年、森林公園のある小根山山ろくを通っていた旧東山道で古代より関所のあった関長原に、歴史と自然を学習する山吹の郷を開設。毎年五月三日に古代まつりを開催しています。

 このまつりは、古代、都より上野の国府に赴任する国司一行を碓氷郡司が峠下で出迎える「境迎へ」の神事と、東国各地より徴兵され筑紫(北九州)対馬壱岐の防衛のため派遣される防人(さきもり)の行軍、東山道より北陸道を経て出羽、陸奧方面の蝦夷(えぞ)を鎮圧するため出兵する鎮兵隊の行軍の再現です。

 私たちの会は古代行事再現開催に先立ち、文献による研究や現地踏査を重ねました。その中で特に防人につきましては、太平洋戦争を体験した一人として強く感じることが数多くありました。

 防人制度は六六三年、百済救援のため出兵した日本軍が白村江(今の韓国郡山付近)で唐新羅連合軍に大敗し、百済国は滅亡し、翌年よりわが国防衛のため、筑紫対馬壱岐に防人が派遣されました。防人は先の戦いで九州方面の兵士を多く失ったため、東国の兵士がその任に当たりました。派遣された防人は、三千人と推定され、防人の任期が一応三年と定められていましたので、毎年千人の兵士が東国各地より徴兵派遣されたと思われます。

 防人に徴兵された農民は課税は免除されたものの、田租は従来通り納めなければならず、一家の中心と重要な労働力を失い大きな痛手を受けました。その上、兵士の持参する武具・装具・炊具は自弁せよ―と規定されておりましたので、当時の農民の生活を考えると、その負担の重さは計り知れません。また、防人の任期は三年と定められていましたが、往々にして守られず、任期を終え帰郷できた兵士は三分の一ともいわれています。そのため当時「一兵点ずれば一戸亡ほろぶ」と言われていました。

 七九五年より九州の兵士が防衛の任に当たることになり、百三十一年続いた防人の制度がようやく廃止されました。東国諸国の農民は、ほっと胸をなで下ろしたことでしょう。

 歴史は繰り返すという言葉がありますが、現今でも憲法を改正して自衛隊を軍隊として再編しようとする動きがあります。海外派兵や戦争により犠牲になるのは、防人の歴史が物語っているように私たち庶民です。過去の誤った歴史を繰り返さないために、憲法九条は絶対守らなければならないと思います。東山道古代まつりはそんな願いを込めて開催されています。

 


(上毛新聞 2008年8月3掲載)