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群馬大社会情報学部准教授 伊藤 賢一(前橋市下小出町)



【略歴】山形県出身。東京大卒、同大大学院修了。博士(社会学)。2001年から群馬大社会情報学部講師、03年から同助教授。専門は社会情報学、理論社会学、社会学史。



「世間」型の日本


◎ネット上に「社会」を


 群馬大社会情報学部は今年で創立十五周年を迎え、過日「ネットは日本社会をどう変えたか」と題する記念シンポジウムが開催された。論点の一つに、高度情報社会になっても日本社会は「世間」として理解したほうがしっくりくるのではないか、という指摘があった。

 「社会」はsocietyの訳語として明治の初めごろに発明された言葉で、それまでの日本語には社会を表す言葉がなかった。もちろん、それまで日本人も社会生活を営んでいたのだが、狭い範囲の「世間」以外に、平等な個々人が協力しあってつくり上げる共同体、という概念がなかった。それもそのはず、身分制の時代では、一人一人が平等で対等な「個人」であるという発想がそもそもなかったので、個人の集合体である「社会」という観念もあり得ないのである。

 日本語に「社会」なるものが登場してから百三十年ほどになるが、相変わらず「社会」という言葉は日常生活においてはどこか座りが悪いようで、企業や官公庁が不祥事を起こせば責任者は「世間を騒がせた」と謝罪するし、入試の失敗や離婚といった個人的な不幸に見舞われた際にもむしろ「世間体が悪い」ことを気にする人は多いのである。こうした事態に注目した西洋史の阿部謹也氏は「日本にはいまだに社会が存在しない」と主張したのであった。

 どうやら、ネット時代になってもこの傾向は続いているようで、先のシンポジウムに参加した筒井淳也・立命館大准教授(社会学)によると、日本人はインターネット上でも仲間同士のみで交流する繭のような空間をつくる傾向があり、見知らぬ人との間に新しい関係をつくっていこうとする動きが、例えば米国人に比べると弱いのだという。「社会」型の米国人と「世間」型の日本人は、ネットの上でも行動が異なるらしい。

 もしそうだとすると、世界中の人と瞬時に情報をやりとりできる時代だというのに、われわれはあえて仲間うちだけで付き合い、見知らぬ人とは付き合わないという孤立化の道を歩んでいることになる。確かに異分子を排除してしまえば、内部の者にとっては心地よい空間をつくることになるだろうが、これではネットのメリットも限定的なものになってしまう。

 私自身は日本社会にも変化の兆しが見られると思っている。低コストで情報発信ができるインターネットの世界は、市民運動やNGO・NPOにとって格好の舞台であるし、ネットを活用しつつ活動するボランティアは、従来の「世間」の枠組みを超えて「社会」に貢献している。これから形成されていく情報社会を風通しのよいものにするか否かは、私たち自身にかかっているのである。



(上毛新聞 2008年10月28日掲載)