視点 オピニオン21
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郷土料理研究家 堀沢 宏之(伊勢崎市大手町)



【略歴】早稲田大教育学部卒。「郷土の食を食卓に」をモットーに活動する料理家。群馬のいいところを見つける「クレインダンス」という取り組みをしている。



郷土料理


◎安心と豊かさの証し


 経済の成長と郷土料理の衰退は切っても切れない関係にある。生活が便利になってさまざまな食材が手に入るようになれば、手間がかかる上に限られた食材で作る郷土料理が太刀打ちできなくなるのも無理はない。

 料理ばかりでなく、経済が成長するとさまざまに選択肢が増え、選択肢が増えれば自由な雰囲気となる。それは同時に、自由に慣れていない人々の不安も生む。人生とはだいたいこういうもの、で、その中でどう生きるか、だったのが、人生とはこうでもいいしこうでもいいしこうでもいいからよくわからない、となる。

 確認するまでもない意見の一致が当たり前にあるときは、一致しているからこそ安心していられるというふうにはなかなか考えない。その時その場所にいる人にとっては、それはむしろわずらわしいことですらあったかもしれない。自由な雰囲気をつくってくれる経済が急成長した裏にはそうした事情もきっとある。

 安心の材料が、土地の言葉、見慣れた街並み、いつもの食生活などにあったとしても、それがあるから安心できていると考えなければ、それらは簡単に捨てられてゆく。捨ててしまって、あれ、なんか足りない、というのが現代である。

 この一年の私のオピニオンはこうなります。

 ところで前回から引き続き、郷土料理は生き残れるか、です。

 おそらく、このままいけば生き残れないでしょう。資料としては残っても、それは生き残るというのとは違うのだと思います。生き残るとは、生きているということです。生活の中に生きている郷土料理はすでにもう多くはありません。

 現代に即していないから。これが郷土料理が生き残れない理由です。ならば現代にもわかるように作り直せばいいじゃないかと思います。現代に即して、ではなく、現代にもわかるように。現代に即したとたんに捨てられる可能性は高くなるからです。

 今や安心の材料は時代を超えて通用できるものが求められているのかもしれません。そう思えばこそ古い街並みも郷土料理も意味があるのですが、一方で、そうした自分以外のところに安心を求めてしまうそのこと自体の問題だってあります。自分以外の何かで安心を得られるというのは幸せかもしれないが、その前になんにもない自分自身に安心できるかどうかということも考えてみる必要がある、ということです。

 私たちはいつも身の回りのさまざまを安心の材料としながらも、いつだってなんにも持たない一人でもあります。一人の実感があればこそ、当たり前にあるもののありがたさもわいてくるのでしょう。

 郷土料理とは、そうした上に成り立つ豊かさの証しです。郷土の料理といえるものがある人生は豊かだと思っているのです。



(上毛新聞 2008年10月29日掲載)