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利根生物談話会会長 小池 渥(沼田市西倉内町)



【略歴】長野市出身。信州大卒。長野県蚕業試験場松本支場勤務を経て、1954年から県内公立高校で生物教諭を務め、91年に武尊高校長を最後に退職。



ブラジル蚕糸業での日本人


◎その貢献語り継ぎたい


 前回(九月十九日付)、大学時代の友人で現在ブラジル・サンパウロ州のブラタク製糸名誉会長、谷内利男氏について触れた。今回、彼の功績についてもう少し紹介したい。一九二七年、日本政府は移民政策によって海外移住組合連合会を組織し、現地代行機関としてブラジル拓殖組合を成立させ、四カ所の移住地を購入、日本移民を導入した。その拓殖事業における移住地の適正作物や産業の模索の一環として、繭、生糸の生産を試み、移住地内(サンパウロの西北六百キロ、バストス)に内職的生糸製造所を造ったのがブラタクの始まりである。

 かくして蚕、繭、生糸の内職会社を続けていた三〇―四〇年代を経て訪れた第二次世界大戦によって日本から生糸の供給を絶たれた連合国側の求めで、ブラジルの生糸生産は、数製糸工場に過ぎなかったものが、終戦時には百二十余工場に急増した。

 売れるに任せ粗製乱造を極めたブラジル生糸は一朝にしてゼロ産業と化し、おまけにブラタクはブラジル政府管理下に置かれ、これ以降苦しみを味わうようになった。しかし、なんとか生き長らえたブラタクは合理化の先駆けとして五六年、日本から自動操糸機を購入。谷内氏は製糸指導のため、三年間の出張でブラタク入りしたが、これに当たり、機械操作の習得と教婦(製糸の熟練工)の同伴(結婚)が条件だった。

 ブラジルの奥地へ着いた時は西部劇のような赤土部落と掘っ立て小屋、土間の素末なベッドと藁(わら)布団、星の見える屋根、板切れの窓、井戸からの水の汲(く)みあげ、破れ電線の裸電球などの悪条件のなかで管理、指導していたという。出張期限が切れて日本へ帰ることを申請したが、時の社長に懇願されて、ついに永住する羽目になった。それには蚕糸業の先進国・日本から蚕種、養蚕、製糸の人と技術を導入することが求められたが、人を呼ぶことは騙(だま)すことでもあった。学術・研究機関の者や大卒者十三人(定着十一人)、高卒者十四人(定着四人)、夕焼け空を見て泣いた彼らが今もブラジルの地に残っている。

 六二年に初めてブラタク糸をヨーロッパに輸出したが、その売り込みに谷内氏が訪欧した際、古い生糸商に粗製乱造時代を責められながら、全力を挙げたという。さらに六七年、生糸大輸出国の日本(世界一高値で買ってくれる)に逆輸出。七四年以降、日本の蚕糸価格安定法による輸入規制や、日本から大手製糸五社のブラジル進出があったが、ブラタクは生き残った。

 ブラジル日本移民百周年の今年、谷内氏から受け取った手紙によって初めてその苦労を知った次第。両国の交流とブラジルの急成長の陰に、このような日本人の存在があったことを伝え続けていきたいものだ。




(上毛新聞 2008年11月3日掲載)