視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
富岡製糸場世界遺産伝道師協会会長  近藤 功(前橋市南町)



【略歴】前橋高、北海道大卒。教育現場と文化財保護行政を経て伊勢崎女子高校長で退職。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を目指し、2004年から伝道師協会会長。



養蚕農家群



◎先人の知恵を後世に



 一九〇九年、日本は世界一の生糸輸出国になる。富岡製糸場が完成してから三十七年後のことである。この生糸の製造業は、地球に埋蔵された地下資源を消費しない。太陽の光で桑葉を生産し、蚕を育て、生糸を製造し、製品として世界に送り出した。地下資源の乏しい日本の選択として当時の先人の知恵がうかがえる。

 当時、生糸の原料を供給した蚕種業(蚕の卵を製造する)から養蚕業は、農民が担った。蚕は長い歴史の中で人間に絹糸を奉仕する虫になり、蛾(が)になっても飛ぶことのできない昆虫ではあったが、当時は、その飼育は極めて難しく、病気にさせないで繭にするために農民は苦労の連続であった。

 そのため、伊勢崎市境島村の田島弥平は、蚕を健やかに育てる方法として、自然に近い新鮮な涼しい空気を使って育てる「清涼育」という養蚕方法を唱え、自らの家に空気の流通が良くなるよう屋根の上に越屋根(こしやね)(ヤグラ、テンソウともいう)の付いた大農家を手本として建設した。今でもその大農家は田島健一氏宅として、蚕室部分はなくなってしまったが、母屋が残る。

 当時の島村は、日本を代表する蚕種の一大生産地で、その蚕種は蚕の微粒子病が回復するまでの間ヨーロッパに多量に輸出されている。輸出と蚕種業振興のため、一八七二年島村勧業会社を設立している。一八七九年には田島弥平、弥三郎、善平の三人でイタリアに渡り、蚕種を直接外国で販売するなど積極的な輸出を展開した。こうした動きの中で蚕種業は島村に富をもたらし「養蚕御殿」とも言うべき、壮大な総瓦ぶき、総二階の俗にゴットウ(奥行き五間、間口一〇間の家をいう)と呼ばれるような、または、その規模に匹敵するような大農家が群れを成すようになった。まさに蚕種業で潤った農村集落を今に伝える地である。

 藤岡市高山の高山長五郎も島村の養蚕法を学び、さらに工夫して「清温育」という飼育法を提唱し、わが国最初の蚕業学校「高山社」を組織した。高山社は、全国にこの養蚕法を広め、かつその飼育法にふさわしい越屋根を持った大型農家を普及し、日本中の村の風景を変えて行った。

 群馬から全国に広まった「養蚕農家群」。群馬では当たり前の風景は昭和の時代には、保存の手が差し伸べられることはなく、西洋式生活様式の普及もあり、取り壊されて、往時の重厚な農村風景が各地で消え去ろうとしている。県内には、六合村や島村の他にも、近代絹産業を支えてきた養蚕農家群がまだいくつも残っている。甘楽町小幡、上野、南牧村星尾、安中市郷原等である。県内各地で身近な農村風景をもう一度見直し、先人の素晴らしい業績を後世に伝えられることを切望している。





(上毛新聞 2009年2月14日掲載)