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群馬大名誉教授  斎藤 三郎(桐生市川内町)




【略歴】群馬大、東京工業大博士課程を経て、今春まで群馬大大学院工学研究科教授。再生核の理論を研究、専門書、入門書も執筆。若い世代に数学の魅力を伝える活動にも力を注ぐ。


学力中心の危険性



◎個性活かす共生社会に




 いじめ、犯罪、モラルの低下、そして財政赤字などの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される戦後教育が挙げられます。これを改善するためには、考え方を競争社会から個性を活いかせる共生社会に変えていく必要があります。

 競争とは、ある価値の下で順位をつけることになり、その点では、個性や特殊性を排除した価値観の画一化につながる危険性があります。

 悪い競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分に向いていないところで競争に駆り立てられている、そんな状況にあることです。

 日本の教育は、学力中心であり、知識中心になっています。いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてであるような、一元的な価値判断があまりにも強すぎる。勉強ができず、学力がなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っている人がいても、それらが評価されず、また無視される状況になっている。これでは、勉強のできない人は学校が嫌いになり、社会から疎外されるようになってしまう恐れがあります。

 人の才能を引き出せずに終わってしまうことは社会の大きな損失です。運動会やキャンプ生活などでは、才能が発揮され、学力以外のさまざまな個性や才能が発見される機会が生まれます。これに対して学力中心による教育では、個性と才能をうずもれさせてしまうだけではなく、才能を活かせない人が社会から疎外され、不満が増大し、社会は不安定になるでしょう。

 個性を活かせる共生社会とは、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていく社会のことです。強い人も弱い人も、考えることが得意な人も苦手な人も、長所もあり、短所もあり、それぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、いじめも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。

 何かというと経済効果や活力のある社会という観点が中心になりますが、少数の自爆テロなどを起こす人を抱える社会は、どれほど、経済的に負を生むことでしょう。あらゆるところで、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して、「社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会」は何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法第二五条の精神を思い出すことは、大変いい状況を生むのではないかと思います。皆さん、競争社会から個性を活かせる共生社会を目指そうではありませんか。






(上毛新聞 2009年5月14日掲載)