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青山学院大総合文化政策学部准教授   宮澤 淳一(東京都杉並区)  




【略歴】太田市出身。青山学院大、早稲田大卒。トロント大客員教授などを経て2008年4月から現職。著書『グレン・グールド論』(吉田秀和賞)、『マクルーハンの光景』など。


「お疲れさま」について



◎空疎な言葉への不安



 夏休み前、定期試験の答案をチェックしていて、考え込んでしまった。無配点の自由欄に何人かの学生がこう書いてきたのだ。「前期の授業、お疲れさまでした!」

 違和感がある。確かに「お疲れさまでした」というねぎらいの言葉は今では目上にも使われる(目下に使う「ご苦労さまでした」と対比される)。しかし常識的に考えれば、教師に向けて発する言葉は「ありがとうございました」や「お世話になりました」という謝辞ではないか。いずれにせよ、授業の終わりや帰り際にも、学生から「お疲れさまでした」と声をかけられる機会は増えている。

 師弟関係の意識の有無はともかく、学生たちに謝意や敬意が欠けているとまでは思わない。結局、彼らは「お疲れさまでした」と声をかけあうことが大人の流儀だと勘違いしており、謝辞を述べることを忘れてしまったか、それよりも気が利いていると思い込んでいるのではなかろうか。実際、彼らのアルバイト先の職場などでは、上下の区別なく「お疲れさまでした」や「お疲れさまです」と声をかけあっているようだ。それが生み出す職場の連帯感が心地よいらしい。

 気がついてみると、一般社会でも「お疲れさま~」を聞く機会が増えた。職場で別れ際に言うのならまだわかるが、会ったときの挨拶(あいさつ)代わりに使う人もいる。先日は初対面の人からいきなり「お疲れさまです」と言われて驚いた。どうやら「お疲れさま~」は、仲間関係を確認・強化する合言葉として、また、それを含めて、状況や上下の区別なく使える万能の挨拶語として定着しつつあるのだ。しかしそれでいいのだろうか。

 ある知人は、電話でも会ったときでも「お疲れさま~」を挨拶代わりに連発する後輩に対して「疲れちゃいないよ」と反発したくなったことがあるという。「お疲れさま~」という固定された挨拶に終始していては、相手の様子をおもんばかることにならないのだ。そもそも挨拶とは、相手との関係を確認し、特に相手に対する感謝を示す貴重な機会でもある。なのに「お疲れさま~」ではそれだけで挨拶が完結してしまうため、そうした気持ちを表現する機会が消滅する。コミュニケーションの質が低下して人間関係が空疎になったり、相手を思いやる気持ちが鈍くならなければよいが…。

 提案だが、自分だけでよいので「お疲れさま~」を密(ひそ)かに禁句にしてみたらどうか。その場ごとの状況や相手との関係から判断して適切な代わりの言葉を選ぶのだ。期間限定でもかまわない。相手のことを考え、自分の立場を省みるよい機会になるだろうし、本当に「お疲れさま~」を発するにふさわしい場合もすぐに見えてくるはずだ。




(上毛新聞 2009年9月15日掲載)