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茨城大学非常勤講師  石山 幸弘(前橋市富士見町時沢)  



【略歴】県立土屋文明記念文学館など勤務を経て、茨城大・県立女子大非常勤講師。県内に足跡を残す明治末期の社会主義青年群像を追っている。



紙芝居の誕生



◎「立絵」禁止がきっかけ



 「紙芝居」という言葉には二つの意味がある。一つは紙芝居そのものを指すが、もう一つは揶揄(やゆ)的な意味だ。荒唐無稽(むけい)なことを指して、「全く紙芝居だね」というように用いる。なるほど紙芝居は理屈に合わない筋書き展開で、かつては多くの子どもたちを魅了してきた。全国の津々浦々、社寺の境内や広場の片隅で子どもの人だかりがすれば、決まって紙芝居屋のおじさんが口角泡を飛ばして演じていた。昭和30年代後半まで続いたこの光景もとっくの昔に消えて、いまや「懐かしの」という修飾を冠されて人々の記憶にのぼる存在となっている。

 学習塾などが当たり前の昨今とは違い、当時は学校が退(ひ)けると子どもたちはガキ大将をリーダーにいろんな遊びをした。ビー玉・メンコは男の子、女の子は石蹴(けり)やあやとりに興じたものだったが、自転車に箱をくくり付けて来た紙芝居屋のおじさんが太鼓や拍子木などを打ち出せば、一切の遊びはそこで中断され、家に飛んで帰って5円、10円をねだり、再びおじさんの周りに集まるのだ。水飴(あめ)やソースセンベイを頬張りながら、15分程度の短い時間を別世界に遊ぶのである。

 まずは幼児向きのマンガ、次に女の子が好むとされるお涙頂戴(ちょうだい)もの。継子(ままこ)いじめの筋書きが多かった。最後が男の子が喜ぶ活劇で、「黄金バット」や「鞍馬天狗」などでおしまいとなるのである。

 この紙芝居の歴史は意外と浅い。経済恐慌で失業者が巷(ちまた)にあふれていた1930(昭和5)年に産声をあげた。所は東京の下町、浅草界隈(かいわい)とも噂(うわさ)されている。

 モノの誕生にはどんな場合もきっかけというものがある。漠然と、ということはない。紙芝居の場合もしかりで、実は江戸期に発展した「写し絵」や「影絵」を母体に明治30年代前期に現れた「立絵紙芝居」が、エログロに傾きすぎて教育上ふさわしくないとの理由で、取り締まり当局から禁止されたことに起因している。背景には商売敵(がたき)となった駄菓子屋業界の運動があったとも伝えられている。

 「立絵紙芝居」というのは、団扇(うちわ)のようなものの表裏に動作の異なる登場人物を描き、これを1場面あたり15本前後、数場面分を用意して鳴り物入りで演じるもので、熟練を要した。演(だ)し物は歌舞伎などの演目にヒントを得たものだったから、客層としては青年女子が多かったらしい。それが次第に子ども層に移っていった。

 客集めのためにエログロに傾くのは世の常だが、それを「生業」としていた人たちにとって禁止されては死活問題だ。紙芝居はこの取り締まりをめぐる相剋(そうこく)の中に、苦肉の策として考案されたものだった。

 この紙芝居、今各方面で復活の兆しが見え始めた。






(上毛新聞 2009年12月2日掲載)