視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
画家  みうら ゆき(前橋市竜蔵寺町)  



【略歴】大分県出身。高校、大学とも油絵を専攻。1984年から山野草淡彩画というオリジナルな世界を確立。現在は個展活動のほか、花の絵教室を主宰。ことしで25年目になる。



創造は身体の声



余計な観念は捨てよう




 時折、庭先で面白い曲線の描かれた葉を見つけることがある。虫の仕業だそうだ。「絵描き虫でしょ」と隣人は幾分迷惑そうに語っていたが。それは葉の中を好きなように歩んだ跡がたまたま独特の図として残るというもので、結果として出来上がった図に虫自体は興味はないだろう。

 人の幼児期の創作においても似たようなところがある。クレヨンを持つ手をあたかも運動のように自由に動かすことで絵が生まれ、声が出ると、歌になる。

 人は大昔から日常のさまざまな想(おも)いを絵にしてきた。怒りでさえ創造のために使える力となった。そして描くことによって癒やされてきたのである。それは自己に忠実な行動であり、本来人には備わっている能力なのである。

 しかし、今は自由であるはずの創造に自身で制約を課して、表現することができなくなっている方が多いようである。

 思えば、人は物心つくころから競争や評価が常にある環境の中に住んでいる。かつて幼児の創作物に満面の笑みで応えた大人たちもやがて「これは何? ちっとも似てないね」など、子供が衝動を形に作り上げてゆく感動の過程より、結果の外形重視の言葉で応えるようになる。

 かくして本物のような外形を描くことが上手な絵なのだと固定観念を持つこととなり、絵は結果ばかりを意識した単なる作業と化す。強い感受性が生み出す抽象性は否定され、自己に忠実な作品を作ることはできなくなる。

 また、興味を持つ色や形と年齢の関係についても何かしら観念をお持ちの方が少なくない。感性も庭園の樹木さながら社会通念の高さに揃(そろ)えられてきたのだろうか。

 もはやこのような人たちに残された自己表現できる唯一の場所は電話の時のメモ用紙上のみとなるのである。そこは評価のない心理的安全と心理的自由が約束されている、無意識の自分が顔を出す所なのだ。

 あなたの引く線はあなた以外、決して作ることができないものなのだ。劣等感を持つ必要はない。そこはオリジナルな世界なのである。余計な観念を捨ててしまうことをお勧めする。自分の中に長年住んでいる批評家を追い出して、外を気にすることをやめると、自己の内面と向き合うことができる。

 創造は身体のもう一つの言葉である。望むように話し、生きることが難しい社会である。せめて創造の中では今の想いを自由に語りたいものだ。

 先の虫のように作為のない線が創造の始まりとなるだろう。閉じたままの心に鍵をさしてほしいものである。






(上毛新聞 2009年12月23日掲載)