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随筆家  牧野 將(館林市上三林町) 




【略歴】旧満州国生まれ。1971年から本県に在住。長く金型設計業務に従事した。96年に放送大学卒業。著書に『赤陽物語~私説藤牧義夫論』がある。



未完の日本画(3)



◎写真と見まがう絵巻



 館林市出身の日本画家、藤牧義夫が「絵巻」を描き始めたのは1934(昭和9)年の夏ごろからと推定されます。この時彼は23歳で、失踪(しっそう)する1年余り前という時期に当たります。

 館林城築城にまつわる神社や城沼の風景を、水彩で描いた≪尾曳(おびき)神社絵巻≫は、この8月ごろの作で、房総半島に旅行し描いた≪清澄山(きよすみやま)絵巻≫は、9月の作と伝えられています。ただし、この2つの絵巻は現在所在が分かっていません。藤牧の「絵巻」で、私たちが見ることのできるのは≪絵巻隅田川・全四巻≫と呼ばれているものだけです。この「全四巻」の各巻の名称は次の通りです。「第一巻・申孝園(しんこうえん)の巻」「第二巻・白鬚(しらひげ)の巻」「第三巻・向島艇庫(ていこ)の巻」「第四巻・浜町公園の巻」。実際には、このほかにも絵巻はあったはずだと推測されています。右の名前が示すように第一巻以外は、隅田川の両岸の風景を描いた絵巻です。第一巻だけは隅田川から離れた場所です(後述)。なお、第一巻から第三巻までは東京都現代美術館の収蔵で、第四巻のみ館林市立資料館が収蔵しています。

 まず基本的データですが、絵巻各巻の長さに差はありますが、1巻の長さの平均は約15メートルで、4巻全部合わせると60メートルの「大長巻図」になります。実際に隅田川畔の写生現場で、藤牧が目の前に広げたのは「美濃(みの)判(約28×39センチ、B4判とほぼ同じ)」と呼ばれる大きさの「和紙」だったでしょう。写生現場での描写は「毛筆と墨」で、墨壺(すみつぼ)と毛筆がセットになった携帯用筆記具の矢立てが用いられたでしょう。写生は「白描(はくびょう)」という技法で和紙に描かれました。白描画は、筆の腹部は使わないで穂先だけを用いた細い「線」のみで描いた絵を言います。≪絵巻隅田川・全四巻≫の仕様に関しあまり細部まで立ち入る余裕はありませんが、以上があらましです。

 私がこの絵巻に初めて接した時の第一印象は「うん、写真か?」でした…が、とんでもないことです。写真どころか肉筆の風景描写が連綿と続き絵巻を構成していたのです。この写真と見まがう写実主義的風景絵巻を見つめていると、大方の人がジワーとにじみ出て来るような、平穏で優しい気分に浸れることでしょう。そうした絵巻なのです。

 風景には、川が流れ、船が浮かび、橋が架かり、両岸には家並みが続き、荘厳な神社が建立し、木立が生い茂る中に工場の屋根ものぞいている。まるで万物を一つ残らず写し取らんとばかりに、藤牧の視覚は、カメラのレンズのような正確さで、筆を持つ手に伝え、筆は神業のごとく忠実に和紙に写し取る。従来の画家による絵巻特有の浪漫的主張を抑え、客観的正確さに徹した描写は神の手のごとき技量です。でも藤牧の絵巻には、平和なぬくもりがあふれています。






(上毛新聞 2010年3月31日掲載)