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創作きもの「にしお」社長  西尾 仁志(前橋市日吉町) 



【略歴】1971年、愛知県立芸術大美術学部卒。呉服小売業の「にしお」に入り、87年から現職。国内の蚕糸絹業の持続的な発展を図る「絹の会」の会長。



木綿のきもの



◎くらしを支えた記憶



 「もめん」という言葉には、やさしくて温かな響きがある。 

 今、私たちのくらしの中になくてはならないものとしてある木綿だが、この繊維が日本にもたらされてから、わずか450年ほどしか経(た)っていないというのも不思議な思いがする。

 柳田国男著『木綿以前の事』に「昔の人が寒暑につけて、天然に対する抵抗力の強かった事は、とうてい今人の想像の及ばぬところであるから、素肌に麻布を着て厳冬を過ごしたとしても不思議はない。麻布や藤衣を何枚も重ねて着ていたであろう」と書いている。このように江戸時代中ごろまで、一部の層は絹を着られても、庶民は麻・葛(くず)・藤・楮(こうぞ)など、草や木からできた布を身にまとっていた。

 寒さをしのぐためには、重ね着をするしかなかった冬。今年の冬は、麻何枚の寒さであった、といった表現がされていたという。

 肌に冷たい麻や木の繊維を着ていた人々は、この木綿の出現をどれほどの喜びをもって迎え入れたことであろう。当然のように木綿は、日本各地に広まり、文禄年間(1593~96年)には大陸から大量の綿の種が輸入され、寒冷地を除く各地で、その栽培が行われるようになった。

 人々は、綿を作り、糸を紡ぎ、その土地ならではの綿織物を生んでいった。

 明治時代の初めまで、全国いたるところで栽培されていた綿だが、日本の風土が、綿作に向いていなかったことなどもあり、次第に消滅していった。

 海外から、品質の良い紡績糸を輸入したほうが、得策と考えられたからであろう。この時代、最大の輸出品が生糸、輸入品の上位を綿花や綿糸が占めていた。

 私たち日本人の衣文化を、革命的に変えた木綿のきものも、戦後ウールや化学繊維が出現、生活が豊かになり庶民でも絹織物が着られるようになって、木綿は安物の代名詞のように扱われ、見る見る衰退していったのだ。

 それでも昭和40年代まで、特徴のある小幅の綿織物の産地や機場は、全国に100以上もあった。しかしその後のわずかな時間の中で、ほとんどが、消え入るようになくなってしまった。群馬でも西の大和絣(がすり)と並び白絣の産地として市場を席巻した邑楽町の中野絣があった。

 木綿のきものは、夏涼しく、冬は暖かく身を包んでくれる。洗濯にも耐え、日本人好みの藍(あい)にも良く染まる。木綿は、日本の風土に合った、優れた素材だ。

 きものが、日常性を失って久しい。着ることが、ハレの領域のものになってしまったからだ。しかし、きものの楽しさは普段着の中にこそある。木綿のきものは、そんな普段着にふさわしいものだ。先人たちが、感動をもって迎え入れた健やかな木綿のきものを、再発見してはいかがだろう。






(上毛新聞 2010年4月30日掲載)