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多胡碑記念館学芸員  大工原 美智子(高崎市吉井町) 



【略歴】県立女子大卒。県立歴史博物館解説員、県立自然史博物館解説ボランティアを経て、1999年から国指定特別史跡「多胡碑」をテーマとする多胡碑記念館学芸員。


石文という「楽譜」



◎時空を超えて伝える力



 文字は、ことばを伝えるひとつの手段。音を再生するための「楽譜」のような役割もする。声では遠くまでとどかなくても、文字にすると別の場所、後の時代まで時間や空間を超えて伝えることができる。

 奈良時代の日本には、アイウエオの五つの母音のほかに、イとウ、アとエ、ウとオの中間の三つの母音もあり、全部で八つの母音があったといわれている。日本人にとっては、長い間、この「音」が重要だったのである。一瞬で消えてしまう音は、何よりも神聖であった。そのため、ほかの国に比べて、文字を使い始めるのが遅かった。はじめは1字1音で漢字だけを使い、苦労して日本語を書いていた。古代人の習字=文字を練習した木簡が多数出土している。奈良の都平城京には、文字を書いたり写経をしたりする専門職があった。間違うと給料が減らされた。緊張感をもって記したに違いない。

 そもそも文字はどうして誕生したのか。メソポタミアでは神殿にささげる羊の記録に使われ、エジプトではファラオと呼ばれる権力者が国を治める道具として使った。中国では、神様や祖先の霊魂に読んでいただくもので、祭具の見えない場所や青銅器の内側などに文字を記したが、やがて王様の判断が正しかったことを証明するために、よく目立つところに書かれるようになった。

 中国の漢字文化の影響を受けた周辺の国々は、漢字に対する反応の仕方がさまざまだった。自分たちの国のことばに合わせ、仮名文字を生み出した日本のような国がある一方で、モンゴル族の元のように漢字を拒み、影響は受けながらも別の文字をつくり出した国もあった。また、契丹族の遼、タングート族の西夏、女真族の金、ベトナムのように漢字を変形させて文字を新しくつくり出した国もある。しかし、漢字の使用を試みた国で成功し、現在も使い続けているのは唯一日本だけなのである。

 古代日本の文字と石碑の成立には、中国・朝鮮半島・日本という流れがある。多胡碑は、中国北魏の文字の影響を強く受けながらも、朝鮮半島の石碑の形状の要素が取り込まれている。石碑にはモニュメントとしての意義と同時に、石という素材を選択していることから、建立者の思いを永く後世に伝えようとする強い意志が込められている。

 ところが、時代の移り変わりとともに日本の社会も日本人も大きく変化した。多胡碑から古代人のメッセージを完全に読み解くことなど、もともと無理であると思われる。しかし、さまざまな角度から広く見聞し、石文という楽譜に記された歴史を再生するために、それを読み取る努力を続けるのも、とても楽しいものである。






(上毛新聞 2010年5月22日掲載)