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高崎経済大大学院地域政策研究科長  大河原 真美(高崎市栄町) 



【略歴】上智大外国語学部卒。豪シドニー大法言語学博士。高崎経済大地域政策学部長を経て、2010年4月から現職。裁判で使われる言葉を研究。家事調停委員。


ニカーブの免許証写真



◎「9・11」のために失効




 2001年の初めのこと。アメリカのフロリダ州で、あるイスラム教徒の女性が自動車免許を取得した。アメリカの運転免許は、連邦政府ではなく各州の政府が発行する。取得年齢等に若干の違いがあるが、基本的なことはどの州も共通である。

 さて、この女性のフロリダ州の免許証の写真は、目のところだけをわずかにあけ、あとは頭全体をすっぽり覆う、ニカーブというベールをまとった姿であった。どこの誰かがまったくわからない写真であった。

 厳格なイスラム教徒の女性は夫や父親や兄弟以外の男性に顔を見せてはならないという宗教的戒律がある。女性を男性の性的誘惑から守るというのが趣旨のようで、ニカーブをかぶらず、顔を出したまま外出して強姦(ごうかん)にあった場合は、女性にも非があるという考え方もあるくらい、ニカーブは必要不可欠のものである。フロリダ州道路局も彼女の宗教的信条に配慮して、本人確認が全く不可能なニカーブ姿の写真を免許証の写真として認めていた。ところが9カ月たって、フロリダ州道路局はこの女性に免許証の写真を、ニカーブをとった顔がわかる写真で撮り直せと言ってきた。女性は写真の撮り直しを拒否したため、免許証は失効してしまった。

 そこで、このイスラムの女性は、フロリダ州道路局は彼女の宗教的信条を侵したと、裁判をおこした。裁判は、控訴審までいったが、いずれも、彼女の敗訴に終わっている。

 その理由は以下である。自動車運転というのは、日常の不可欠なことではなくあくまでも特権にすぎない。写真撮影のために瞬間的にニカーブをとるのが宗教的信条に反するならば、免許という特権を放棄すればよいだけのこと。国家の安全保障のために本人が特定できる写真が必要というのには、正当な根拠がある。

 とは言っても、アメリカでは、車の運転ができないと社会生活ができない。運転免許は特権ではない。実際に、アイオワ州では14歳、フロリダ州でも15歳から条件付きで運転ができる。しかし一般のアメリカ人はそのように考えない。このイスラム教徒の女性は、女性の運転が禁じられている本国では運転をしない。アメリカに来て、宗教的戒律でできないことをしているのであるから、その特権を享受したいのなら、ベールうんぬんも政府当局の判断に従うのが筋ということ。

 そもそも、フロリダ州道路局は、なぜ9カ月で方針転換をしたのだろうか。01年9月11日の同時多発テロ事件の発生がその原因である。アラブ系の過激派に神経をとがらせた政府当局が、アラブ系の女性の顔の特定が全くできない写真を認めない方針を固めたからである。この女性も、とんだとばっちりを食らったというものである。








(上毛新聞 2010年6月20日掲載)