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NPO法人自然観察大学副学長  唐沢 孝一(千葉県市川市)



【略歴】嬬恋村出身。前橋高、東京教育大卒。都立高校の生物教師を経て2008年まで埼玉大講師。1982年に都市鳥研究会を創設、都会の鳥の生態を研究。



語り継ごう戦災樹木



◎甦る姿に生きる希望




 初めて戦災樹木と出合ったのは1995年春であった。御茶ノ水駅近くにある湯島聖堂(文京区)で、黒焦げのイチョウの幹を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。関東大震災(23年)と東京大空襲(45年)の2回にわたって被災しながら、その都度甦(よみがえ)り、今もなお緑の葉を茂らせている。戦後65年、戦争体験者は少なくなるばかりだ。戦災樹木は歴史の生き証人としてますます重要である。

 東京都内には戦災樹木が70カ所以上も残っている。源頼朝が植えたという浅草寺の大イチョウ、三代将軍家光お手植えの芝東照宮のイチョウなど、都心に残る巨木の多くは空襲で被災したが、今も戦後を生きている。すべてを失った焼け野原にあって、黒焦げのイチョウが緑の芽を吹き甦るのを見て、どれほど多くの人が励まされ、生きる希望を持ったことであろうか。

 東京以外の被災樹木も調べてみた。広島や長崎の被爆樹木をはじめ、北は山形県酒田市のタブノキ(78年の大火)から、南は沖縄県首里城のアカギやアコウ(45年5月の沖縄戦)まで、5年の歳月をかけ、全国で約120カ所の所在を明らかにし、拙著『語り継ぐ焼けイチョウ』『よみがえった黒こげのイチョウ』の2冊として刊行した。

 戦災樹木の役割は、過去の歴史を語るだけではない。イチョウやサンゴジュは、昔から「火伏せの木」として神社仏閣に植えられてきた。浅草寺のイチョウは、関東大震災による火災から本堂を守ったといわれている。関東大震災や阪神大震災では火災による被害が大きかったが、その延焼を食い止めたのは「樹木と河川」であった。「緑と水」は、都市の防災という観点からも見直されている。

 ところで、北関東の戦災樹木としては、宇都宮市旭町の大イチョウが有名だ。45年7月12日の空襲で被災したが甦り、市の復興のシンボルとして市民に親しまれている。群馬の戦災樹木はどうだろうか。前橋市在住の小暮市郎氏に尋ねたところ、生まれも育ちも前橋という篠原豊氏より「前橋市内の八幡宮と諏訪神社のイチョウ、中川小学校のタブノキが戦禍をくぐり抜けて生き延びてきた」との返信をいただいた。

 前橋大空襲は45年8月5日。死者535名、市街地の8割が焦土と化した。折しも65年後の同じ日、前橋文学館主催の「戦争を忘れない」に参加。被災者の生々しい体験を拝聴した。市内に残る戦災イチョウやタブノキにも対面。空襲で焼け、その後5~6日もくすぶっていたという大木は、色濃い緑を茂らせていた。

 樹木は何も語らない。が、見るものの心に何かを語りかけてくれる。空襲の激しかった太田市にも、戦災樹木は残っているだろうか。戦災樹木を訪ねる旅はまだ終りそうにない。







(上毛新聞 2010年8月14日掲載)