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富岡製糸場世界遺産伝道師協会広報部長  外山 政子(藤岡市中大塚)



【略歴】東京都出身。明治大卒。県埋蔵文化財調査事業団嘱託を経て、現在高崎市榛名町誌編さん室嘱託。「はばたけ世界へ、富岡製糸場」の刊行にかかわる。



『富岡製糸場事典』



◎歴史の裏にある実態を




  夜中、テレビ映画を見るともなく見ていました。アンジェイ・ワイダ監督の「約束の土地」というポーランド映画で、19世紀末綿繊維工業都市ウッジで野心を抱く若者たちの姿を描いたものです。この中になんと「ブリューナ・エンジン」と呼ばれている動力機関によく似た大きなはずみ車が登場しています。工場内はエンジン音と蒸気が充満し、織機がうなりをあげ喧噪(けんそう)と熱気の中で物語は進み、煙突から排出される黒い煙が象徴的に使われています。

 ふと、富岡製糸場の開設時もこんな騒音と蒸気熱が充満していたのかしらと考え、はっとしました。写真で見たり、資料を読んだりしても歴史的な事柄は遠い昔のことで、建物内も音や光や空気、匂(にお)いも無い静謐(せいひつ)な空間として思いこみがちです。実態を無視した文字面だけの理解、頭の中だけの知識で、何事かを語ってはいないだろうかと反省させられます。世の中のすべてを体験し、自分のものとすることは不可能ですが、せめて歴史的な事態、事実の裏側にある実態を想像しうる、柔軟な思考を持っていたいとあらためて感じさせてくれた映画でした。

 折から、私たち「富岡製糸場世界遺産伝道師協会」では「シルクカントリー双書」(上毛新聞社発行)の一冊『富岡製糸場事典』の執筆と編集に取り組んでいます。「富岡製糸場」が日本の近代化に果たした役割をもう一度しっかりと確認するとともに、ここを舞台に多くの人々が交差し、人生の重要な時間を過ごしたことも忘れずに書き進めていきたいと思います。1872(明治5)年10月4日、操業開始時に煙を吐き出した煙突を見上げた当時の人々は、どんな感慨を抱いたのでしょうか? あの黒い煙は機械化・近代化の象徴でもあり、強いあこがれと経済成長の期待とが寄せられていたはずです。石炭の燃える匂いでさえ好ましい物として感じていたかもしれません。さらに、煙のその先に外貨獲得と、富国強兵の戦略を見つめていた人物もいたことでしょう。こんな想像ができるような「事典」を、なんとかお届けできたらと思っています。

 「富岡製糸場を世界遺産に」との活動に参加して、実に多くのことを知り、学びました。楽しい仲間もできました。さらに、近代化産業に結集した技術がその後の日本の工業技術に連鎖的に集積していることを肌で感じられました。一方、現在の養蚕・製糸・織物業が抱えている深刻な事態も認識しました。遺(のこ)された建物や器械・道具類から職人・技術者の「技」を引き出し、語ることは大切ですが、技術は人による手加減があってこそ生きると考えます。人々に受け継がれている絹産業技術を、これからも生きた産業として継承していくために私たちに何ができるのか、仲間とともに考え続けていきたいと思います。







(上毛新聞 2010年10月5日掲載)