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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


内村鑑三と深井英五



◎国際的な英傑に誇り



 江戸時代は武士の住む所は町名がなく、柳川町も武家地だったので1873(明治6)年に名前が付いた。県外にまで名を知られる“粋な花街″だが、花街が形成されだしたのは軍隊が高崎城址(じょうし)に進出して来てからで、町名は家老邸の庭に流れる用水の脇に大きな柳の木があったことに由来、粋とまでは言いにくい。東部は湿地で馬場があり、中部と西部は武家屋敷が並んでいた。明治になっても元藩士が多く住み、世界的にも著名な方の名前がみられる。

 名著『代表的日本人』を英語で著した思想家・宗教家の内村鑑三先生がいる。高崎藩の50石・馬廻格の金之丞宜之の長男として江戸で生まれ、父の異動に伴い高崎へ来られ柳川町で生活された。高崎英学校で学ばれ、城址に連なる頼政神社境内で遊び、烏川での魚とりが楽しみであった。東京英語学校を経ての札幌農学校入学と、生誕百年記念碑(先生の漢詩「上州人」が刻まれている)が同境内に建つ理由がここにある。

 「我が内なる精神は武士道なり」という先生の心情は、「生くることは戦うことなり」という古武士の典型のような祖父長成と、文武両道を兼ね備え若き藩主の側近として尽くされた父君に育まれた。そして「薩長、肥後の者共に対し充分の反抗運動仕りたく、かつ、上州人は日本国自由の先鋒となり、我国をして少なくとも東洋第一等国とまでは致したく、協同仕りたき…」との、祖父堤寛敏宛の書翰(しょかん)から、権力にこびず自由の先頭に立つべき上州人への想おもいが表れている。

 もうお一方は、通貨政策の最高権威者といわれた国際人、第13代日本銀行深井英五総裁である。高崎藩の120石・者頭の八之丞景忠の五男に生まれ、父の深い教養と尚武の気風に大きな影響を受けられた。畏敬する長兄の助太郎景命は、私の曽祖父金之丞克寛らと水戸浪士追討軍として出陣し下仁田で戦死した。

 そのようなこともあってか、克寛の次男辰二(高崎尋常小学校長・県版教科書編著者)に指導を受け、一時は辰二宅に宿泊し人間および社会に関する啓発を受けた。英語習得を勧められて星野光多先生(牧師)に学び、キリスト教に帰依することになる。この2人に最も感化を受けたと『回顧七十年』で述懐している。二・二六事件後の混乱を乗り切り、強い慰留にも関わらず辞任した時の行動など、高潔にして古武士のような言動は、父君や2人の恩師の訓育が強く影響している。

 このように2人の国際的な英傑に共通する点は、武士道と英語力だと思う。この土台の形成が、余り知られていない幼年期を過されたまちにあることを歴史から学び、偉人を輩出したことに誇りを感じる。来年は、お二方の生誕150年と140年。これを機に一層の顕彰をしていきたい。







(上毛新聞 2010年12月5日掲載)