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中之嶽山岳会長  飯嶋 常男(下仁田町上小坂)



【略歴】甘楽農業高(現富岡実業高)卒。25歳で山岳会に入り、妙義山の登山道整備や山岳遭難者の救助に携わってきた。近年は同山や郷土史の調査にも取り組む。


下仁田社の歴史に光



◎先人たちの偉業伝えて



 下仁田町上小坂・中小坂地区は、妙義山「金洞(こんどう)山」を源に流れる小坂川流域に位置します。山村の中山間地域のため水田はなく、農家は畑作専門で生活するなかで、養蚕・製糸を慶長年間末から連綿と続けてきました。日本の生糸輸出を担った組合製糸の一つ、下仁田社がこの地で創業したのは1894(明治26)年のことでした。

 72(明治5)年、官営富岡製糸場が創業、建設には江戸時代から製糸の産地として知られた甘楽郡内の富岡が選ばれ、製糸業近代化の方向を示しました。当時の県内製糸は座繰り器で小枠に取る提げ糸造りの製糸法でしたが、富岡製糸場は日本の気候風土に合った小枠から大枠へ再繰法が取り入れられた最新の製糸でした。

 しかし群馬県には富岡を模範にした製糸工場はほとんど作られませんでした。ヨーロッパの最新技術を取り入れた揚げ返し製糸法による改良製糸工場が、78(明治11)年以降、群馬県全域で発足しました。製糸工場は「組」と呼ばれ、養蚕農家が資金を出し、川沿いに建設、組長以下取締役・監査役と役員をそろえて発足。農家で繭から生糸まで加工、組の工場で揚げ返した生糸を販売・養蚕金融の貸し付けを行う組の連合組織が南三社(碓氷社、甘楽社、下仁田社の総称)でした。

 各組は現在の大字に当たる地区におよそ1つの工場を建設し、農家が座繰り器で生糸を取り、工場で揚げ返し工程を行い、南三社で販売を行っていました。南三社へ加盟する組合も他県に広がり、取り扱う揚げ返し生糸は、明治末期には器械生糸と並び輸出量のリーダーとなりました。各地に工場が発足しました。地域の女性労働力が生かされ、村じゅうが活気にあふれ、農家・地域全体が潤い、国家も一等国として発展を遂げました。

 富岡製糸場の建築物が世界遺産国内暫定リストに入っていますが、群馬県から発展した組合製糸も生糸輸出に非常に大きな役割を担いました。

 ところが、蚕糸業の衰退に伴い、こうしたことも忘れられつつあり、個々の組については資料が乏しいのが現状です。そんななか、下仁田社に加盟していた金洞組の資料の一部が数年前に発見されたのを機に、地元の人たちと組の事業解明を始めました。

 上小坂漆萱地区に現存する明治期に建築された欅(けやき)造りの大型養蚕農家は、当時の面影を残しています。その建屋を使い、先人たちの偉業を伝える活動に取り組んでいます。養蚕道具収集や、120年以上も前に各地域に建設された揚げ返し工場の稼働で、農村蚕業から近代産業へと発展した原点の過去を掘り起こし、地域全体の活性化となるような活動拠点を目指しています。






(上毛新聞 2011年1月15日掲載)