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県立女子大非常勤講師  新井 小枝子(藤岡市中大塚)



【略歴】藤岡市生まれ。県立女子大卒、東北大大学院修了。博士(文学)。専門は方言学、日本語学。近著に『養蚕語彙の文化言語学的研究』(ひつじ書房)。



「真綿」のような雪



◎表現を豊かにする喩え



 この冬、上毛三山への初冠雪は、いつもの年より少し遅かった。昨年暮れは12月9日の朝、通勤途中のラジオが、前橋地方気象台の発表を告げていた。

 「昨日初冠雪を観測した赤城山は、真綿のような雪に覆われました」

 信号待ちの瞬間、その姿に目をやると、確かに昨日まではなかった白いものが見える。雪のかかり具合といい、山肌の見え具合といい、赤城山の遠景が見事に言い当てられているではないかと、いたく感動した。

 ハンドルを握りながらしばらくして、ニュースの表現が気になり始めた。「真綿のような雪」。<雪の積もり具合>を<真綿>に喩たとえたものだ。初冠雪を説明することばは他にいくらでもある。しかし、実際の赤城山を目にしていない視聴者に、その様子をありありと伝えようとすれば、話は別だ。緻密なことば選びが必要になる。

 説明しにくいもの、わかりにくいものをことばで表現するとき、しばしば喩えが使われる。そのとき、説明に使われる側は、人口に膾かい炙しゃしたわかりやすいものでなければならない。それが鉄則だ。<真綿>が、私たちの日常生活から消えて久しい。そのような時代にあって、「真綿」という語は、ラジオの前でどのように理解されたのだろうか。

 私には、かろうじて<真綿>の記憶がある。大正生まれの祖母は、寒い季節になると、玄関先の日だまりで、マワタカケ(真綿掛け)という作業をした。たらいのお湯の中から一粒一粒繭をひろい上げては、くぎを打った四角の枠に広げていく。それが乾くと、家族の袢纏(はんてん)や布団に仕立てた。中綿を並べたその上に、<真綿>をさらに広く引き延ばして、そっとかぶせていく。中綿が切れたりずれたりするのを防ぐためだ。かつては、このような生活実感を、多くの人が共有していた。

 車を降りて教室に向かい、早速、教え子たちに聴いた。「ふんわりと柔らかく山肌が見えないくらい積もった雪」「真っ白に厚く降り積もった雪」と、自信なさそうに答える。確かに、私が目にした初冠雪の様子とは、いささか異なる。続けて尋ねると、<真綿>の実体がわからないという。教え子たちを責めるつもりは毛頭ない。実感のないことばは、好むと好まざるとにかかわらず、そこから醸しだされる雰囲気、ただそれだけの理解に留まってしまうということなのである。

 <雪の積もり具合>を表そうとするとき、選択肢の中に「真綿」ということばがあるのは幸せなことだ。雪の見方がそれだけ豊かだからである。だからこそ、「真綿」が生活実感を背負った表現として理解され、長く生き続けてほしいと願う。それは、ことばによるすべての理解を、表面的なものにしないための切なる願いである。







(上毛新聞 2011年1月23日掲載)