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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


下仁田戦争



◎本分貫いた武士に敬意



 前回触れた深井英五さんの兄上と私の曽祖父が下仁田で戦死した件は、「日本最後の鎧兜(よろいかぶと)による戦い」として合戦史に登場する、江戸時代の高崎最大の事件・下仁田戦争である。

 明治まであと4年の1864(元治元)年、高崎藩201人が水戸天狗党925人の西上(攘夷(じょうい)を朝廷に訴えるため徳川慶喜に仲介を求め京都へ向かった)を阻止するため戦闘に及んだ。斬り合いでは優勢だったが、数度の戦を経験していた天狗党の奇襲に遭い、砲撃を指揮していた曽祖父が銃弾に倒れると高崎軍は混乱し通過を許す敗戦となった。高崎36人、天狗党34人が戦死した。

 天狗党とは、水戸藩主徳川斉昭に取り立てられた改革派下級藩士に対する、確執を繰り返した門閥藩士からの蔑称で、主張や手段から何派にも別れ、武士以外も多く混在する複雑で分かりにくい集団である。やがて意見が通らなくなると、攘夷の旗の下に軍資金の強要や民家への放火など実力行使に出、幕府も放置できなくなった。そのため、関東諸藩に出された「浮浪の徒」に対する追討令を受けて高崎藩も出陣。従って同じ徳川体制の御三家水戸藩士と戦った訳ではない。

 この年は、禁門の変や長州征伐といった大事件が起こり、この戦は地方の一事件に過ぎない。しかし高崎藩に伝わる文書から時代に翻弄(ほんろう)された様子が見える。

 まず、幕府権威の低下や命令系統の混乱がうかがえる。高崎藩主に対し天狗党追討軍総督を命じたが「本来なら水戸藩が始末をつけるべき事案」と高崎藩が主張し幕府は撤回している。また、老中が出すべき大名への天狗党追討命令が若年寄からの発信であった。この状況の背景は、江戸時代が世界にまれな平和な日々であったからであろう。

 島原の乱以来二百数十年も戦争がなく、軍事組織が基本の幕藩体制は形式的で“常在戦場″ではなかった。また老中や若年寄などが意見の相違や権力争いから短期に失脚し、在任中も優柔不断であった。昨今の政局に似ている。

 一方高崎藩でも混乱が見られる。犯罪集団の逮捕という命令に戸惑い(上州の他藩は出陣せず)、下仁田への追討軍を3隊で組んだが、主力が常陸(ひたち)方面へ出張転戦中で、全体を指揮する将がいない危うい編成で出陣した。しかも三番手は戦闘に間に合っていない。先祖に対し失礼になるが急場しのぎの感を免れない。

 ただ、記録を読むと、ある者は病を押し隠し、ある者は当主故に十五歳で、多勢に無勢の中、ひるまず果敢に戦い亡くなっている。武士は支配階級として栄誉と特権を有する代わりに、民の見本として厳しい道徳律が義務付けられ名誉を重んじた。武士の本分を貫いた戦死者に敬意を払い慰霊祭を続けている。








(上毛新聞 2011年1月28日掲載)