視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
織物製造・販売  山岸 美恵(館林市仲町)



【略歴】1974年に結婚し、家業(山岸織物)の手伝いに入る。25年ほど前から二次製品のデザイン、製作を始め、前掛けやブラウス、シャツなど約20種類を手掛ける。


館林織物



◎格子柄が江戸で評判に



 今年も成人式には、振り袖・羽織袴(はかま)姿の若者たちが色とりどりの晴れ姿をみせてくれました。

 近ごろでは、歌舞伎等の劇場でも年齢を問わず和服姿の女性を見かけます。やはり日本人は、和服がいいですね。思わず笑みが出てしまいます。

 また、着物の奨励を図るために各地で工夫されたイベントが実施されているようです。

 思えば、着物がよそゆきになってからは、着る機会もあまりなくなってしまいました。私が子どものころは、母や祖母は普段着として日常的に着物を着ていたように記憶しています。道を歩いていると家の中から機を織る音が聞こえてきたりしたものです。

 そこで、“館林織物”について触れたいと思います。

 『邑楽郡誌』によると、館林織物の起こりは、鎌倉時代に始まり「鶉(うずら)織」と呼ばれる木綿織物を産出していたようです。このころは、まだ樹皮や植物をさらしで紡いだ糸を織ったようです。

 その後、綿種が入り、江戸時代には館林地方でも自家栽培の綿花を紡いで織った木綿織物が、農家の副業として発展してきました。さらに、1751~63年ごろには、「結城縞(じま)」、1801~03年ごろには、「清吾織」と呼ばれる袴(はかま)地が作られました。ほとんどは縞が格子柄で江戸で評判を得、このころから織物の産地として出発していきました。

 明治・大正・昭和の一時期の全盛期には、あちらこちらで機を織る音が響き、活気がありました。館林では、染めから織り上がるまでは一貫作業ではなく、分業で農家の副業として、朝早くから夜遅くまで隣同士競争で織ったものだそうです。

 現在では、手織りではなく機械で織っています。戦前からの機械で織っているため、一日にいくらも織れませんが、手織りと同じような手触りのよい、使うほどにやさしい風合いの反物になります。どの織元で織ったものかすぐ分かります。

 昔の人は、縞柄の一つ一つに名前をつけて粋を楽しんでいました。

 館林織物も時代とともに衰退し、現在では数件が伝統的な技術、技法を維持しつつ商品開発に取り組んでいるところです。

 よそゆきの着物というより、ファッションとしてアクサセリーを付けたり、ブーツを履いたり等、粋な縞が味わえるデザインを工夫して、個性を生かした着方で館林紬(つむぎ)を利用していただきたいと思います。






(上毛新聞 2011年2月11日掲載)