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群馬詩人クラブ代表幹事  樋口 武二(富岡市田篠)



【略歴】ミニコミの編集・発行に携わる。群馬詩人クラブの代表幹事、コミュニティマガジン「い」編集発行。2005年に自然保護活動で「群馬銀行環境財団賞」を受賞。


失ってしまったもの



◎地味な企画を続ける力



 前橋の広瀬川河畔の美術館で、「詩人の目・照応する世界」と題して、詩と美術のコラボ展が開催された。私も、雑誌仲間たちと一緒に参加させていただいたのだが、普段はお目にかかることのない美術作家との交流は、ひじょうによい刺激になった。新しい形の試みということで、参加された人たちの前向きな発言が目立った。

 また、近くの前橋文学館では、去年から群馬詩人クラブが共催で「戦後詩の検証」を始めている。どちらも、たくさんの観客動員数を期待できない催し物である。近ごろでは、こうした地味な行事や実験的な企画に「場」を提供してくださるような法人や個人が少なくなった。それは文学や美術の世界ばかりではなく、環境保護や人権活動などにも同じようなことがいえるらしい。景気が悪くなった、を合言葉にして、おしなべて人はうつむき加減で歩いているといったところか。その影響で、文化、芸術などの分野が、日常生活から遠い分だけ、粗末に扱われ、その力を失っていく、といったことが懸念される。

 「戦後詩の検証」を手がけて、あらためてわかったことがある。あのころの人たちは、今よりも物が無かったのにもかかわらず、一斉に雑誌を創刊し、詩作活動にエネルギーを燃やしていた。先輩たちの話に「文学に飢えていた」というのがあったが、まさに熱病のような時代だったのかもしれないのだ、と思っている。

 それにひきかえ、私たちの「物事に対する姿勢」はどうだろうか。バブル崩壊後に私たちが失ってしまったものがある。それは「いきおい」であった。無鉄砲と言われようとも、ただひたすらに「邁進(まいしん)しようとする力」、それが失われてしまった。そういう力がないと物事は始まらない。「どっちでもよい」は選択肢にすらならないのではないか。

 さて、前述の話に戻るが、榛東村で全国の詩の雑誌を収集し、公開している「現代詩資料館」というのがある。個人の運営だが、喫茶店も併設してあって、それで暮らしている。奇特というか冒険というか、ここもうれしいところである。こうした地味で誰も手を出さないところで仕事をするには勇気がいる。そういう人たちが頑張ってこそ、まさに「継続は力なり」なんて言葉も生きてくるのだ。私たちが書きつづけ、読みつづけることによって、未来への継承なんていう、大それたことも可能になる。

 そのためにも、世の中が景気悪いからと落胆せずに明日のための夢を見たいものだ。無駄を承知で、文学とか芸術にお金を使ってみるのも一興だ。そういうところから、時代は動くかもしれない。せめて、前のめりの歩みでありたい。つんのめっても、それでよい、そんなところで生きてみようかと思うのである。







(上毛新聞 2011年2月27日掲載)