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伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館運営協議会長  大塚 富男(伊勢崎市下触町)



【略歴】新潟大大学院修士課程修了。地質調査会社勤務の後、1983年に学習塾開校。7年前、信州大で博士号(理学)取得。群馬大など3大学の非常勤講師。



遺跡から学ぶもの



◎生きる知恵を読み解く



 自宅から1・5キロ以内の範囲に全国的に見ても重要な遺跡が集中している。下触牛伏遺跡、赤堀茶臼山古墳、多田山古墳群、古代の幹線道路である東山道古道、女堀遺溝で、それぞれに人間の壮大な営みを感じる。個別の詳細は県埋蔵文化財調査事業団編「群馬の遺跡シリーズ」(上毛新聞社)にまとめられているので、ここではまずそれらの概略について述べる。

 下触牛伏遺跡(約3万年前)は、日本で最初に旧石器時代の環状集落『ムラ』が認知復元された遺跡である。なぜ『ムラ』が環状であったかについては種々の議論があるが、4家族程度の家族群からなる『ヒト』の交流の場とされている。

 赤堀茶臼山古墳(5世紀)は、教科書にも掲載された家形埴はにわ輪(東京国立博物館所有)が出土した古墳で、埴輪の種類から近畿地方との強い関連性が指摘されている。同時期の太田天神山古墳(東日本最大の前方後円墳)や伊勢崎のお富士山古墳でも石棺の造り方の類似性から、近畿地方と友好的な『ヒト』の交流があったと考えられている。

 多田山古墳群12号墳(7世紀)は、日本で初めて唐三彩(伝来は8世紀)が7世紀後半の古墳から発見されたことで話題になった。陶とう枕ちんと呼ばれるもので、唐の都から2千キロも離れた旧赤堀町の多田山にもたらされた背景には『キーマン』がかかわる壮大なドラマがあったようである。

 東山道古道(8世紀)は、近畿地方から長野、北関東を経て東北に延びる古代の幹線道路である。伊勢崎市のどこを通るのかは特定されていないが、湧水池が連なる旧赤堀町南部の可能性が強いとみられる。この古道は『ヒト』の移動に伴って美濃地方で作られた陶器などの移動も盛んで、まるでセラミックロードの観があったという。

 女堀遺溝(12世紀)は、1108年の浅間山噴火による耕作地の荒廃を背景事情として、赤城南面の利水のために造られた人工の堀である。前橋市上泉から伊勢崎市国定に至る全長14キロに及ぶ堀の跡で、未完に終わったとされている。その理由は不明な点が多いものの、中世においては桁外れの大工事で、膨大な資金と権力と『ヒト』の力が必要であったと想像できる。現在、一部は国指定の史跡として菖蒲園の形で利用保存されている。古人からのプレゼントである。

 成立時代の違いこそあれ、人が意図をもって懸命に生きた痕跡がはっきりと残されている。連綿としたダイナミックな人の営みによって大地に記録された謎を一つ一つ解くことで、そこに人が生きていくための知恵や精神性を読み解くことができる。そこで学び取ったエッセンスは、必ず将来に役立つであろう。もしかしたら今の時代に欠けているものを古人から教えてもらえるかもしれない。






(上毛新聞 2011年3月8日掲載)